六代目笑福亭松鶴「狸茶屋」(中)

マクラで咳の止まらない松鶴。
しかし慌てず騒がず、楽屋にずっといると空気が悪いのだと。そんな中、きん枝くんみたいな髪の長いのが歩き回っているから余計空気が悪い。
そしてスッと元の話に戻る。見事だ。下手するとただの悪口で終わりそうだけど。

今(といっても録音時の昭和46年だからずいぶん昔だが)の遊び。
キタの高いクラブに行くと「アケミさん、このお客さんの横手に座ってあげて」。
別に客が頼んでいるわけでもないのに。
こういうときは、「座らしてもらいなさい」と、お客さんの気に入るように言うべきなのだと松鶴。
今の子は、騙すのが下手。客がカネを持ってないと鼻にもひっかけない。
昔なら、冷やかしの客なら客で、楽しく返してくれたのだと。

実に含蓄に溢れているではないか。客は騙されるなら、気持ちよく騙されたいし、騙されるために通いもする。
松鶴の話、あちこちに飛ぶのでわかりやすくはない。
行間を自分で埋め、マクラで語る内容の前後をつなぎ合わせて理解する必要はある。
にもかかわらず、とても人の気持ちにしっくりくる語り。
それは、押しつけがましさと無縁だからだろう。
記憶の中の、昔の遊びが楽しかったのは確かだとして、これがよくて他がダメなのだとは、松鶴は一切語らない。
このあたり、うっかりすると押しつけがましくなる噺家もたくさんいると思う。私の好きなベテラン師匠でもそうなるかもしれない。
遊びに限らず、人の価値観に関わる部分は特に、すべて融通無碍であって欲しいところ。
遊びの噺なんて、眉をひそめたくなる人だっているはずだから、特に気を付けないと。

そして切れ目がわからないぐらいにスッと本編へ。本当は、まだマクラの小噺なのだが、聴いているほうは本編と思う。
飛田あたりのろくな女のいない店に、袖を引かれて入ろうとする二人連れ。
一応人間の格好はしているが、化粧せずに山の中を歩いていたら狩人に鉄砲で撃たれるような女たちが並ぶのをお見立てする。
そんな中から、一晩辛抱するならどれを選ぶかという二人の客。

現代人だと、女に対してひどいことを言うなと怒る人だっているかもしれない。怒るまでいかないにしても、どこかそぐわない感じを受けて、白けてしまう人なら結構いるかもしれない。
「落語ってそういうもんだ。黙って聴け」は乱暴だと思う。別にかしこまってありがたく聴く古典芸能ではない。
私は別に、女がひどいことを言われて直接怒りはしない。だが、怒る人の気持ちを頭の片隅には持つ。
とはいえ昔の噺に、目くじらを立てる必要など、本当はない。噺の中の空気をよく味わえば。
女が女なら、客だって客。もっとも下の店で遊ぼうとする客など、下の下。
そんな客が、よりごのみなどできないことは、最初からわかっている。
本気でつまらん女だと嘆いているわけではない。そういう、緩い世界の噺。
といって、私が緩い空気を完全に理解できているわけではない。一応、そこに迫れるよう想像はしてみる。
こういう空気は、松鶴から志ん朝を通して、東京の落語界にだってしっかり流れ込んできているはず。
まあ、客が努力して噺に迫らなければならないかというと、そんな努力義務まではない気もすぐにしてくる。だから廓噺を残していくのは、やはり難しい。
でも、努力すれば、しただけの価値はあるのも確か。

ひどい女の中から一番ましなのを選び、「わしに気があるねや」と取り合う二人。
そんな女はやぶ睨み。
親がタケノコで損したに違いない、だから藪をにらんでいると好きなことを言い合う男ども。
親がタケノコで損したので、娘はマツタケで儲けていると、これは強烈な下ネタ。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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