M-1批評と評論家たち(下)

ちなみにM-1から全然離れるけども、松ちゃんのコメントに絡みどうしても書きたいことがある。
性暴力の件、男性は加害者の立場からしか見られない人が多そうだ。そんなことはない。
映画「ショーシャンクの空に」の原作であるスティーブン・キングの中編「刑務所のリタ・ヘイワース」。
これに、刑務所内での男同士のレイプが克明に描かれている。これを読んで、性被害者の心境がわかるようになった。
あと最近読んだのがハヤカワミステリのサンドリーヌ・コレット著「ささやかな手記」。
現代社会で不条理に奴隷労働をさせられる男が、婆さんに犯される実におぞましいシーンが出てくる。
フェミニズムを持ち出さなくても、性被害者の立場を理解することはできる。そして松ちゃんのコメントには、被害者心理が抜けすぎている。

M-1評論の紹介に戻る。最後は高橋維新。
高橋維新の「2019年M-1決勝・全批評」テレビ的に売れる人は?
先の二人は本も出し、文筆業で食べてるのだが、この人はいったいどうやって生計を立てているのかさっぱりわからない。
今は弁護士じゃないらしいし。

この人のM-1論評、生理的な拒否を我慢して読むと、露骨に出ている自意識の強さに、ある種の面白さがある。
そして、TVプロデューサー目線で、どの芸人を番組にスカウトしたら面白いかと考える。誰も、あんたにそんな仕事頼まないと思うが。
読者からは間違いなく、「お前誰なんだよ」的な感想が跳ね返ってくるだろう。
ナイツの漫才で、塙さんがとうとうと、(大根役者なのに)演劇論を語って「お前誰なんだよ」と突っ込まれているネタがある。その漫才のボケだけバージョンみたいな批評だ。
演芸評論を生業としているわけでもなさそうなのに、完全に上目線。「これは本来こういうものだが、実演ではこうでなかった」という解説。
最近はですます調にして、多少偉そうな度合いを和らげようとしているのだろうか。

だが、この自意識のムダな高さ、そしてそれがゆえにお父さんのやっている媒体以外からの依頼はない点につき、私もいろいろ思うところがあるのである。
泡沫ブログを書いている私も、反面教師となる維新の記事で時として反省させられる。だから価値がある。

維新はかつて落語界に対して、妙な方向からボールを投げてきた。
私の記事はこちら
その後、落語についてなんらかの学習をしたことは一切ないようである。今回の記事も、落語ファンなら食いつくであろう部分を全くスルーしている。
まあ、お笑いと落語とは、相当違うものだからいいけども。

記事では、すゑひろがりずについて、ネタの中の「イッキコール」を批判していた。なんじゃそりゃ。
まあ、形として否定していることで免罪符になるかどうかは確かに微妙だけど、そもそもあれで不愉快になる人間がいるのか?
高橋維新はやや不快になったらしい。なったものは仕方ないし、なったことを理由に批判するのは構わないけど、かなり特殊な人な気がする。

からし蓮根のボケの評価は私とだいたい一緒だった。癪だ。
そして維新は見取り図のネタについて、彼らが到底できないことを勝手に求める。声質とか。
まあでも、できもしないことを芸人に求めてしまい、それが実現できれば絶対面白いぞ、と言いたい気持ちはわかる。
私だって、落語を聴いていろいろ思うことがあるもの。でも、できないことはできないのだ。どうしてできないのかという資格は、ただのファンにはない。
でも思った通りに書くことはない。仮定法を使えばいいのに。「こうだったらもっとよかったのだがな」というアレ。
なんとかして強い自意識を引っ込めないと、演芸コラムニストとしてはやっていけないだろう。
自分では絶対にできないことを芸人がやっているのだというリスペクトがもっと自然に湧いてくれば、自意識も自然と薄まるのだろうが。
たぶん、いきなりTVバラエティの制作側、それもトップにまわりたいのだろう。そんなルート、You Tubeにしかないけど。

ここまで、相変わらずだなと思いながら読んできたのだが、優勝したミルクボーイの記事の一か所にだけ、うならされた。悔しいことに。
「ボケは駒場じゃなくてコーンフレーク」というくだり。
これが正しいかどうかは、どうでもいい。このような、独自の着眼点こそ、コラム記事に必要なものだ。
これにやられたと思い、ここで取り上げている次第。
一昨日に触れたラリー遠田氏のコラムは、かなり独特なミルクボーイのシステムについて、あくまでも「優しいツッコミ」として扱っていた。それでは読み手の心情に迫れない。
ただ、常に偉そうな維新に対しさらなる上目線でこちらも言うが、「わかってねえな」と思った部分もある。
ボケの駒場が、ネタ中はあまりしゃべっていなかったので能力が未知数だというのだ。
維新は、あくまでも必要なピースとして認めた上で言ってはいるのだが、バカ言えと思った。
ミルクボーイの漫才、ふたりは役割を分担している。非常に練られた台本を、絶妙に割り振って進めていく芸なのだから、そもそも「どちらが重要」かという発想自体が大きく間違っている。
私の自己たとえをもってくるのは反論としては無意味だが、「トス」「スパイク」にどちらが重要はないだろうよ。
普段は落語聴いてるわたしのほうが、コンビの役割分担のことをわかってるぜといいたい。
芸人を最初からタレントという視線で視てしまうと、大事なものを見逃す。

というわけで、漫才も面白いが、漫才批評も面白いではないですか。

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作成者: でっち定吉

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