柳亭市馬「御慶」(上)

6日間、M-1について触れてしまった。しかも後半は、日々アクセス数が落ちていった。
落語に戻ります。
何か年末らしい噺を取り上げようと思い、私のVTRコレクションから探すことにする。
年末の噺というのは、こんなもの。
ほぼ、借金が返せない噺である。

  • 芝浜
  • 文七元結
  • 掛け取り
  • 睨み返し
  • 言訳座頭
  • 富久
  • 尻餅
  • 穴どろ
  • 加賀の千代

芝浜、文七はちょっと別格か。
最後のふたつ、特に加賀の千代など年中できる噺だが、もともとは年末の噺らしい。
加賀の千代は、オリジナルらしい年末バージョンを先日、桂歌春師が浅草お茶の間寄席で掛けているのを初めて聴いた。
寒さを感じる冬の噺というのも多数あるが、年末の噺はまた別の季節感のあるもの。

ちょっと借金噺のラインナップの中では毛色が変わったものを取り上げる。
今年の2月に落語研究会で放映された、柳亭市馬師の「御慶」。
まあ、珍しい噺だろう。この放映の前に聴いたことは一度もない。速記で読んだだけ。

それほど掛からないのはなぜか。聴けばすぐわかる。
実にしょうもない構造の噺なのだ。
富に凝って年中ぴいぴい言ってる八っつぁんが、見た夢を元に富をケントク買いする。
見事一等、千両に当たって幸せな正月を迎える。
そこにはたいしたドラマもない。八っつぁんが欲しかった「鶴の1845番」が売り切れていたのを、易者のアドバイスで「鶴の1548番」に替えたぐらい。
富久みたいな劇的な展開もないし、富くじの噺である高津の富(宿屋の富)のように人間心理の不思議さを描いた名作でもない。
そもそも客は、御慶の主人公八っつぁんの人となりも知らないので、「八っつぁん、苦労が報われてよかったね」とも思いようがない。
しかも、サゲが地口オチ。
「ぎょけえ(って)いったんだよ」「(どこへ言ったんだ、と聞き違えて)恵方参りに行ったんだ」
実になんとも、淡白な噺。

このような落語、「業の肯定」と定義すれば簡単。人間の欲望をそのまま認めるのが落語なんだと。
しかし、バクチへの欲望ならばもう少し奥が深いが、富くじなんて業の中でももっともしょうもないレベルのもんだ。
運任せの富に凝ってるやつなど、ろくでなし以外の何者でもない。そんな奴を肯定するのは勝手だが、そこにドラマなど生まれない。
だが、このしょうもないがゆえにそうそう掛からないであろう噺に、もう少し、魅力があるのも確かなのだ。
資料的価値だけにはとどまらず。

私のバイブル、当ブログでもたびたび登場する「五代目小さん芸語録」に、この珍しめの噺が取り上げられている。
柳家小里ん師が、師匠・五代目小さんに教わったのは、この噺は江戸の正月の雰囲気が出ればいいんだということだそうだ。
小里ん師はさらに、映画の寅さんが正月のシーンで終わるのになぞらえている。
言われてみれば確かに、先に挙げた年末の噺は、大みそかの攻防を描いたものが多い。
だが大みそかを無事乗り気った、新年を描いたものはない。
その点でも御慶に価値があるのだ。
小さんはさらに、筋を追っていけばいい噺だと語っていたそうだ。劇的な心理描写などは一切ないのだから。
晴れ渡り、空気の澄み切った正月の風情が出ればいいのだと。

落語が文芸へ流れていく動きは、どの時代でも常にあるもの。
まあ、文芸落語があったっていい。私もしばしば落語から、文芸としての感動を味わっている。
だが、やれ芝浜だ、やれ文七だというドラマティック人情噺を大事にする流れが強すぎると、御慶みたいなどうでもいい噺はないがしろにされるわけだ。
でも、正月の華やかさのためだけに年末があるこのような噺も、大事にして欲しいものである。
なにしろ、正月の噺なんてそんなにないんだから。これは、顔見世興行である初席で、ちゃんとした噺が掛からないためもあるかもしれない。

しかし、時季を限る割にはリターンの薄そうな噺だ。つまり、儲からない。
儲からない噺は、覚えないしなかなか掛からないよなあ。

さていよいよ大みそかの明日は、小さんの弟子、市馬師の御慶を見ていく。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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