柳亭市馬「御慶」(中)

市馬師、富の説明を簡潔にして、射幸心を煽りすぎるので天保の改革で廃止になったと振る。
それから八っつぁんとかみさんが言い合いしている長屋にシーンを移す。

正月に餅がなくてもいいけども、よそのうちでは音だけ出しているといって笑わせる。
これはこの落語研究会で先に出たらしい、春風亭一之輔師の「尻餅」のことを指しているようだ。
ちなみにこの、同じく放映された「尻餅」と比較して、今回御慶を扱うことにした。

落語でおなじみのやり取りがふたつ入っている。
「切れるもんばっかりだな、なにか切れねえもんはねえのか」「菜っ切り庖丁が切れないよ」
「おっかさんのもんたって、今はおまえのもんだろう、お前のもんは、俺のもんだ。俺のもんは俺のもんだ」「じゃ、あたしのもんがないじゃないか」
前者は貧乏ネタにはたいがい入っている。
後者は「転宅」で有名。ジャイアンがのび太に言う、「お前のものは俺のもの」は、ここから来ている。

八っつぁん、夢に見たヒントでなんとか一分作って富を買おうと、かみさんの、おっかさん形見の半纏を引ったくって質屋へ。
庶民は無理に一分こさえたりしないで、景富を買っていたなんて聞くけど。番号だけ本物から流用する、私設違法くじである。
八っつぁんはちゃんと買う。
だが、なんとか一分作って富を買いにいくと、夢に見た「鶴の1845番」が売り切れ。
なんで知らねえ奴に売っちまうんだとか、もうひとつ番号こしらえてくれとか、好き放題を言うが、もちろんダメ。
1845番の、845というのは、八っつぁんが見た夢の「はしご」である。鶴とはしごが見えたのだそうな。
あきらめてとぼとぼと、死んじまおうかとつぶやく八っつぁん。かみさんと、渋る質屋に文句を言いつつ。どこまで行ってもダメなヤツ。
その八っつぁんを易者が呼び止め、はしごは下から上がるときにつかうもんだから、逆さに548とするもんだと。
それで、鶴の1548番を買う八っつぁん。

八っつぁん、何の努力をしたわけでもない。ただ好き放題、かみさんにも散々迷惑掛けていたら、勝手に当たりくじを手に入れることになるのだ。
実にあっさりしているが、先代小さんはそれでいいのだという。
この噺は、努力もなく富の当たった幸せな男の、幸せなさまを年始に祝うというだけの噺である。
何の努力もせず幸運を得て、それで「死神」のごとく不幸になるわけでもない噺は、これと黄金餅ぐらいだろうか。

そんな噺だから、「高津の富」のごとく当たりくじのシーンをサスペンスフルに、もっちゃり描いたりしない。前述の「五代目小さん芸語録」にも、富のシーンを描きすぎて長いだけでダメになる高座の例が取り上げられている。
そしてさすが市馬師、富のシーンは非常にあっさりである。賑やかな空気だけが伝わってくる。
市馬師、いい声でもって「鶴のせんごきゃくよんじゅうはちばーん」。
いきなり富が当たって、腰が抜け、外れた連中に面白がられて神輿のごとく運ばれる八っつぁん。そこに深いドラマはない。
水を飲ませてもらう八っつぁんだが、火焔太鼓みたいな笑いもない。
現金もらって持って帰る際に、襲われたりもしない。
落語の客も、富に凝って家庭を顧みない八っつぁんの姿を知っているから、別に一緒に喜んだりしない。
ただ賑やかな様子を眺めるだけ。これが、他の年末噺と違う最大の点。

富というものは、一番富から順に少額を発表していったらしいが、落語では最後に一番富。
だが、変にリアルな部分もあって、千両をすぐに欲しいなら、200両引いて800両になりますよと。
八っつぁんに知恵があれば、ほうぼうの払いを待ってもらって千両もらうのだろうが、単純なので、まったく迷わずすぐ800両もらう。
どっちにしても、800も1000も八っつぁんにとっては現実的なカネではないので、差がないのだ。八っつぁん、800でいいから早くもらわないと、また引かれそうで心配なのである。
誰も引きやしないが。
25両入った切餅が、32個。「シワ32ということになりますが」と、こんなところも変にリアル。
当たった金の保管にリアルな心配を持ち込むと、「水屋の富」になるわけだが。

めでたい噺と一緒に年を越すことにします。元日に続く
2020年もよろしくお願いします。

作成者: でっち定吉

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