柳亭市馬「御慶」(下)

三十石/らくだ

御慶。
2020年の年明けです。現実世界と一緒に、落語「御慶」も新年を迎えます。

市馬師の「御慶」、よく聴いていると師がいかに目的意識を強く持って噺を刈り込んでいるか、よくわかる。ギャグの萌芽だけが噺の中に多数残っているのだが、それを膨らます誘惑には駆られない。
五代目小さん芸語録で批判されている、長いだけの高座というものが、聴いていないが頭に浮かぶ。
高津の富や火焔太鼓、妾馬などのエッセンスを噺にぶちこむと楽しくなりそうだと演者も思うのだろう。だが、噺の骨格も、強調するシーンも違う。そんなことをしてもムダなのだ。
年明けのめでたいシーンを描くため、市馬師は寄り道せずストレートに突き進む。

体中に金を仕込んだ八っつぁんが家に帰ると、おかみさんがおかんむり。どうせ外れたんだろう、去り状寄越せと。
そこに切餅を見せる八っつぁん。おかみさんはびっくりだが、火焔太鼓のようなギャグもないし、涙をそそるシーンもない。
「だからあたしが富はどんどん買えって言ったろ」と返すぐらい。

大家に当たったことを報告しに行き、溜まった店賃を置いてくる。
大家に切餅を見せると、悪い了見でも起こしたんじゃないかと言われる。だが、話を聞くと喜んでくれる大家。
調子こいた八っつぁんがもっと持ってけと勧めるが、大家は滞納分しか持っていかない。
ちょっと妾馬っぽい、人情噺ふうのくだりである。もっとも、滞納家賃以外を大家が持っていく理由などあるわけがなくて、当たり前。
その足で有名な古着屋、甘酒やに出向く八っつぁん。そこで裃をあつらえる。
かみさんは、これで安心して大家の家の前を通れると喜んでいる。
いい格好で年始に行きたい八っつぁんともども、夫婦揃って、喜ぶポイントがどこまでも現実に即しているのであった。
大家のところは実際に訪れるが、描かれないが、「易者の先生に見料払いに行かなきゃ」と八っつぁんがつぶやいているのは大事。
八っつぁんはクズではないのだ。金が当たる前はクズっぽいけど。

そしていよいよ大みそか。描写はされないが、店賃以外に溜まった支払いは済ませたのだろう。
前の日から、裃を着たくて仕方ない、子供みたいな八っつぁん。
さらに元旦。立派な恰好で年始に廻る八っつぁん。すでに千両当たった有名人。
八っつぁんが嬉しそうなのは、千両当たったことよりも、いい格好で堂々と年始に廻れることだ。どこまで行っても単純な男。
かみさんには、印半纏で旦那の後をついて年始を廻るのは嫌なのだと言っている。
大家もいい格好(付き袖)と、年始の挨拶「御慶」を教えてもらう。

「御慶!」「永日!」ととことん嬉しそうな八っつぁん。挨拶する相手をいちいち驚かせる。
まあ、言いたいだけなのだ。
そして会う友人たちはいずれも、八っつぁんの当選を喜んでくれる。誰もそねんだり、たかったりしない。
これが、先代小さんがもっとも重視した部分である。だから、前が長すぎるとよくない。

サゲが地口オチ。もっといいオチはないのだろうか。
落とし方としては、「角が暗えから提灯借りに来た」道灌と大差ない。

速記で読んだときは、「ぎょけえいったんだよ」でよく落とせるものだなと思った。
市馬師のものを聴くと、実にこのサゲの持っていきようが巧みだ。
「ぎょけえいったんだよ」が、見事に、「どこへ行ったんだよ」にも聞こえる。これなら、友人も「恵方参りに行ったんだ」とスムーズに返せる。
コツとしては、完全に「どこへ行ったんだよ」の口をしながら、「ぎょけえ」というと、そう聞こえるようである。
まあ、噺を知らないと、曲もなにがなんだかわからないかもしれない。
でも、サゲなんか、わからなくても悩むほどのことはない。めでたい噺だなと思って楽しめばいいのです。

今年も「でっち定吉らくご日常&非日常」、よろしくお願いします。

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妾馬/廿四孝

作成者: でっち定吉

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