笑点と政治風刺(下)

森友学園や桜を見る会、年金2千万問題など、笑点に限らず落語では鉄板ネタ。
マクラよりも、噺本編のクスグリとして上手にぶち込むと、とても面白い。
例として、浅草お茶の間寄席の柳家喬太郎「死神」。呪文が「あじゃらかもくれん定年後の貯金は2千万」。
マクラで出さないのは、生々しいからだろう。
噺家の一人称で語ると、噺家個人の政治思想として客に伝わってしまう。
これは噺家にとって得策ではない。客の最大公約数に合わせていかないとならないのは、笑点も落語も一緒。
政治的姿勢が自分と同じだと判断した人だけを芸人として気に入るという、わけのわからない客もいるが、主流派ではない。

落語本編に政治ネタを放り込むと、語り手が消えるので、ギャグとして非常に効果的に働く。
桜を見る会に胡散臭さを感じる人が、左右問わず多数いるという前提がまずある。その、聴き手のもやもやした不快感を笑いに利用しているのだ。
噺の展開が、その不快感にマッチする瞬間がある。そこに狙ってギャグをぶつけると、笑いが生まれる。
だけどそこに噺家の鋭い批判精神があるのかというと、それも違う。笑いに利用しただけ。
芸人個々には、政治に対する批判精神もきっとあるはず。自民党政権にではなく、野党に対する批判精神を持っている人もいるだろう。
だが、そんなものを露骨にぶつけて、客の気持ちにそえるかどうか。
批判する対象を噺の本編に入れて、登場人物に喋らせる手法は、素材が政治に限らない。
噺に一瞬穴を開け、現実世界にパイプを通す楽しいワザである。

以前書いたのだが、浅草お茶の間寄席で放映されたロケット団の漫才において、「枝野さん」「小泉進次郎」などの名前が出ただけで、いちいち手を叩く馬鹿客がいた。
彼らが政治家の名前を出すのは、ウケを狙うために過ぎない。ロケット団の政治信条など知らないし、そんなものは漫才に関係ない。
漫才を思想で埋め尽くさなきゃと思い込んでいるのが、ウーマンラッシュアワー村本。不器用なだけ。
左の連中だけが好きなウーマン村本は、ネタが視聴者にとって快をもたらさないから、メディアへの出演が少ないに過ぎない。だが政権の圧力により出番が減っているというフィクションを持ち込み、それによって仕事を得ている。
こういうフィクションを維持していると、左の人だけを相手にする世界から抜けられなくなるし、せっかくの批判も、同調者にしか届かなくなる。
先輩に嫌われているオリラジ中田や、視聴者の好感の低いキングコング西野などであっても、ちゃんと仕事の場を独自に見つけているのと比較して。

このブログでは、立川志らく師を繰り返し批判している。
だが、志らくを批判する人にもいろいろいる。
「安倍政権御用ジャーナリスト大賞」として志らくを表彰するような連中と、私は気持ちを通わせたくはない。
なぜかニュースサイトにちょくちょく出ている、志らくの考え方の浅はかさについては軽蔑している。だが、政治スタンスそのものを軽蔑するいわれなどない。
思想に芯がなく教養もないので、クラゲのようにフラフラしている志らくが、右にブレていちいち反応している連中に、政治のなにが語れるというのか。
批判精神が政治的立場を必ず伴わなければならないと思っているとしたら、いかに狭い視野であるか。
志らく批判なんて、政治とはなんの関係もなくできること。
政治的な視点と無関係に志らくを批判している人は、能町みね子と、鋭い筆を持つライター仁科友里ぐらいしか知らない。

怒りの着地点を見つけるため、最近の志らくの笑点に関する発言を批判しておしまいにする。
<笑点の功罪の功は、落語冬の時代にずっと日本人に落語家の存在を知らせてくれていたことに尽きる>

昔に笑点をdisっていたことを詫びようとして、「尽きる」なんて限定して失礼なことを吐く。相変わらずである。
これでもまだ、自分のほうが落語が上手いと思っていることを読み手に伝えようとしている。もちろんそんなことはない。
芸もだし、最大公約数にどう立ち向かうかがわからない点において、笑点メンバーに一生勝てはしない。

(上)に戻る

 

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。