池袋演芸場19 その4(橘家圓太郎「化け物使い」)

時そば/文七元結

橘家文蔵「時そば」

本来ヒザ前の橘家文蔵師が順序変更で登場。
本来この出番の彦いち師が、NHKラジオの生放送に出ていたためらしい。
仲入りのひとつ前、このポジションの文蔵師は、池袋でよく見かける。このほうがぴったり来る。
「待ってました」「たっぷり」の声を受けて、その声掛けが、噺家の心をいかに傷つけるかとぶつくさ。
たっぷりったって、たっぷりやりませんよ。やれる出番じゃないんだからって。
まあ確かに、声掛けるほうも「たっぷり」だったら、せめて仲入りの出番でするべきで。
マクラは振らず、十八番の時そばへ。
今冬は私、よく聴く噺。萬橘、鯉昇、世之介の各師から聴いて、4席目。
どの師匠の時そばも楽しく爆笑。時そばブーム到来? そんなこともなかろうが。
年中掛けられる噺ではあるけど、やはり冬がいい。
文蔵師は、まともなそば屋のくだりでは、ギャグも入れずじっと我慢。
だが、そばをたぐる後ろにキリっとした夜の寒さが感じられ、とても楽しい。そしておそばが非常においしそう。
初めてギャグを入れるのは、世の中ボーッと生きてる男が出てくるシーン。
文蔵師、地に返って、なんなんですかねこの男、よく落語に出てくるんですよ。どこの会社にもいるでしょ、ひとり、なんで給料もらってるのというやつ。
その話を聴いてる私なんか、言われる側の人間ですがね。

そしてまずいそば屋ですべての笑いを回収。客はもう、息も絶え絶え。
車とはねられた人の看板で「あたりや」とか。
ちくわが、本当にドンブリの模様だった。このクスグリは初めて聴いた。古典落語をよく聴いている人ほど笑えるギャグ。
武骨な文蔵師が、たまにかわいい言葉を使うのも面白い。「ヤダア」みたいな。

橘家圓太郎「化け物使い」

仲入り前は橘家圓太郎師。
寄席の番組にはいろいろな意味がありますと。
背の順番に並んでることもあるし、年収順に並んでいることもあるし(ねえよ)。
文蔵さんとは同じ一門なのだが、どうして並んでるのだろうと。
年齢も体形も似たようなものだが、私のほうがやや上品だって。

なんと化け物使い。夏の噺だと思っていたが。年中やってるわけじゃないと思うけど。
でもよく考えたら、季節感はそれほど濃厚に漂う噺じゃない。
圓太郎師の化け物使いは、一つ目小僧しか出ない、少々変わったバージョン。
そして、隠居の人使いの荒さを表す冒頭のシーンはなくて、その代わりに口入屋で主人と番頭とが困って相談するシーンが入っている。
その場面に入ってくる、田舎から来た杢助。
望み通りの人が来たというので、人使いの荒い隠居の元に送り込まれる。
人使いの荒さの描写が出てくる前に、化け物屋敷に引っ越すと聞いたので働き者の杢助が暇をもらう。
ここからの、杢助が隠居をたしなめる場面が、ちょっと人情噺ふう。
杢助は、もう奉公人なんか来るわけねえだとは言わず、奉公人に来て欲しかったら優しくしなければなんねと主人をたしなめる。
隠居も、反論はせずそうかとうなずき、最後に引っ越しの手伝いをボランティアでする杢助に感謝している。
だが、実はちっとも反省していなかったというのが、圓太郎版・化け物使いに流れるテーマ。
この噺を聴いて、「働き方改革」「ブラック企業」「やりがい搾取」という今風のキーワードを全部感じてしまった私である。
杢助に、「人に使われたことがないから奉公人の気持ちがわからねえだ」とたしなめられた隠居が、一つ目小僧に対して、「自分がなにをしなきゃいけないかよく考えろ」と怒鳴っているのが皮肉なユーモア。
この噺、いちいち現代的観点から眺めなきゃいけないなんてことはないけども、噺の芯に、労働とは何か、雇用とは、人を使うとはなにかという根源的なテーマがすべて隠されている。普遍性を持った噺は、聴き手が自由に解釈できるのだ。
といって、労働に関する過去の嫌な記憶がよみがえるとか、そういうことはない。楽しい高座。
左の立場から、噺を眺めて喜ぶ人もいそうだ。私自身はそうは捉えないけど、そういうのもあっていいんじゃないでしょうか。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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