春風亭一之輔「かぼちゃ屋」

寄席で落語を聴くのはとても楽しいが、TVで視るそれも、また面白いものである。
私は、有料放送を除き、TVで流れる落語のほぼすべてを録画している。結構な量。
保存する価値がなければそのうちに消すが、4分の3くらいは残しているのではなかろうか。つまり、それだけ価値のあるものが多い。
生で落語を聴く習慣を持っている人間としては、TV・ラジオの落語を好むのは、あるいは珍しいのかもしれないが。

毎度書いていることだが、NHKの「演芸図鑑」、この番組で流れる9~12分程度の落語、実に楽しい。当ブログでもよく取り上げている。
先日は珍しく、「なんじゃこりゃ!」という落語を怒りとともに取り上げてみたが、これは例外中の例外だ。
短い落語の中にも高い価値がある。NHKも、落語入門編として商品化したらいいのに。

各局の番組にまんべんなく出ている噺家さんの落語は、やはり面白い。
今、いちばん多く出ているのは春風亭一之輔師である。いずれのオンエアも圧倒的に面白い。
今日は、先月に流れた「かぼちゃ屋」を。
TVでも客を圧倒する一之輔師。もちろん、落語をあまり知らない人にもその面白さはちゃんと伝わるだろうが、古典落語の演目について、よく知っているファンのほうがより楽しめると思う。
よく知っている噺、または、つまらないのでやる人の少ない噺を、魅惑のアレンジで発信するその腕と来たら。

与太郎噺の代表作「かぼちゃ屋」。
与太郎は、ごく皮相なものの見方では知的障害者なのだが、落語の世界ではもう少しユニークな存在である。
平凡な日常を裏返してくれるトリックスターなのだ。神話にしばしば描かれ重要な役割を果たす「愚者」のような、特別な存在。
だが、「ちょっと愚かな与太郎が、意外と賢かった」という程度では、そんなに面白くはならない。
寄席でよくかかる「穴子でからぬけ」なんて小噺の与太郎だと、せいぜいこのくらい。私のホームグラウンド池袋演芸場ではまず掛からないが。
与太郎とは、噺家さんの創意工夫を映し出す鏡。古典落語の世界で揉まれ擦り切れてしまったような与太郎は、それほど面白くはない。
だが、一之輔師の与太郎は、ひと味もふた味も違う。「この世の一般ルールと違う、妙に知性のある与太郎」というキャラを、一から作り出すのである。

一之輔師の古典落語のアレンジ、いつも感心するのは、先人と違うアプローチをしているのに、それが結果的に、噺を活かすベストの方法であるということ。
売れている二ツ目だった頃は、まだ先人のアプローチに忠実だったのではないか。「かぼちゃ屋」でも、普通に「はたちじゃねえよ下駄履いてるよ」「二十がハタチなら、三十はイタチか」なんて、入れてたのではないかと思う。
最近では、気を遣わなくてよくなったのか、まったく自由である。先人のギャグも使うが、役に立つので使っているという感じ。
結果的に、さらに噺が面白くなっている。
師は、噺を徹底的に解剖して、噺の肝に最短で到達する。この創作力に天才振りが現れる。
平凡な噺家さんは、師匠や先輩から教わった通りに噺を演じるが、自分でなにをしているのかまったくわかっていない。わからない部分を「伝統」という言葉でごまかしている。最近はそんな師匠は少ないかと思うが。
もちろん、そういうわからない部分の中に、大事なものが潜んでいたりもするのだ。
だが、一之輔師が独力でたどりついてしまうアプローチは、しばしば先人の積み重ねを軽く凌駕している。
そして、結果的には先人たちの切り開いた「落語」世界をさらにふくらますという貢献をしている。

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一之輔師、マクラから面白い人だが、マクラひとつにしてもいろんなアプローチ手法を持っている。
瀧川鯉昇師ばりの、「創作のかたまり」になっているときも、実にさらっとしているときもある。
もちろん時間の短い「演芸図鑑」のこの日は後者のほう。だが、例によって実の息子を登場させるマクラが、実に楽しい。
「どこ行くの」
「仕事だよ」
「落語だろ!」
「いや、それで生きてんだよみんな、うちの家族は」
「そうなの、世の中チョロいね」

さて本編。
噺の本質へのアプローチがとにかく速い一之輔師。与太郎のツボに速攻迫っていく。
そもそも与太郎の本質は、肚がまったくなく、世の中うまく渡ってやろうという気負いのかけらもない点。
この「肚がない」という点がもっとも大事だと思う。この点は、古今東西の与太郎に共通している。「東西」といいつつ、上方には与太郎に該当するキャラがいないけど。
ピュアな与太郎が、世の中をわかっている大人との間に騒動を巻き起こすというのが与太郎噺の基本構造。「馬鹿だ」という属性のほうには、大きな意味はないのではなかろうか。
噺家さんに、落語に対する深い洞察力がないと、本質を活かさず「馬鹿」の側面だけを無意味に強調してしまうことになる。
だが、極端に馬鹿である必要などない気がする。
たとえば、与太郎と、人のいい甚兵衛さんとのコラボはない。甚兵衛さんは、世の中がぼんやりとしかわかっていないから。
与太郎と八五郎のコラボもない。乱暴な八五郎とピュアな与太郎の間では、ギャップの面白さが生まれない。
わかっている人と、わかっていない人との間に楽しいコミュニケーションギャップが生まれれば落語になる。人間になったばかりで常識の分からない犬が相手なら「元犬」になるし。

上方落語のファンには、与太郎が苦手な人もいるだろう。上方落語のエース、アホキャラの「喜六」ともかなり毛色が違うし。
だがきっと聴き手として、与太郎へのアプローチが違うのである。与太郎は、たぶん神に近い存在なのである。
愉快な「人間」である「喜六」とは、互換性がない。
「かぼちゃ屋」は、元は上方噺の「みかん屋」であるが、与太郎は江戸落語特有のキャラなので、噺の雰囲気自体大きく異なる。

一之輔師は恐らく、このように「与太郎噺」の芯(肚がない)を的確に見抜く。
古典落語の芯は大事な部分なので動かさない。だが、与太郎のキャラは、芯と矛盾しない範囲で徹底的にいじる。
その結果、作り手のインテリジェンスを反映させた、妙に知性に溢れた与太郎ができあがるのだ。
先人の培ってきた古典落語の世界から外れないのに、やたらと面白い与太郎の誕生。
天秤棒を担ぎながら与太郎、ひとりごちる。「なんて言って売ったらいいか教えてくんないところがあのおじさんのあそこ止まりのゆえんだ」。
世間に対するものの見方が独特なところがいいのである。

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一之輔師の与太郎が、先人たちと異なるのは、結構「主体性」があるという点。
一般人とのギャップにもとづくコミュニケーションを、積極的に拾いにいっている。
「馬鹿な与太郎」という、底の浅い造型にしていると、与太郎が意外にも主体的にものごとを捉えるときだけがウケ場となる。少々紋切り型。
だが、一之輔師の与太郎は、主体的な性格まで織り込んでいる。主体的に動くのだが、その方向性が違うのが、コミュニケーションギャップとなる。
どこからでもウケを取れる、ハイパー与太郎である。八五郎や甚兵衛さんがそうであるように。
与太郎としては珍しい造型なのだが、それでも「肚がない」という本質にマッチしているから、落語世界から逸脱はしない。

主体性のあるこの与太郎、小ボケをかますんである。
天秤棒を担ぐ際、「腰を切るんだよ」と言われて台所から出刃を持ってくるのは、いにしえから続くギャグ。
だが、一之輔師の与太郎、確信的にボケる。
おじさんのほうもさる者で、与太郎のボケにのっかって、「見ててやるから切ってみな」。
「おじさん、シャレがきつい」と、泣く与太郎。

路地で引き返せず、人のうちの格子を傷だらけにする与太郎。
かぼちゃをたくさん買ってくれる、噺の最重要人物である男が「張り倒すぞ」と言うと、与太郎は、おじさんの教え「お客様に逆らうな」を思い出し、「どうぞ、殴って下さい」。
男が与太郎を見て「綺麗な目してんなこの野郎」
NHKの公開収録の客にはウケていないが、一之輔師的には、結構重要なセリフなんだろう。
このセリフ一発で、与太郎のピュアな本質が端的に描かれる。
「面白い奴だ」と可愛がってもらい、かぼちゃを全部買ってもらう与太郎だが、最後まで変な肚はない。

「上を見ろ」を思い出し、与太郎、雨乞いのように両手を広げ、物理的に上を見る。
全部売れた後、帰っておじさんに「上を見たの出せ」と言われ、目に焼き付けた映像を口から出そうとするシュールな与太郎。
そして、いちばんのギャグ。
「上を見たのを教えろ」とおじさんに言われて、ひとりその目で見た「上」の情景を語る与太郎。

抜けるような青空
かなたには入道雲
つばめが一羽 輪を描いた
そんな夏の昼下がり
よたろう

婆さんが、「『みつを』みたいね」と笑い転げている。トリックスターの本領を発揮する、詩人与太郎。

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「みつを」ばりの爆笑与太郎ポエム。
一之輔師にあこがれる若手が下手に真似したら、たちまちケガして再起不能になりそうだ。かなり奇跡的なギャグ。
このギャグ、なぜウケるのか。
尽きるところ、与太郎に肚がないからなんだろう。そして、演者の一之輔師にも、変な肚がない。
変にウケてやろうという意識は双方になくて、「主体性のある・肚のない与太郎」ならこんなことを喋る、と理詰めにみっちり考えていったその先にギャグがある。
先人の与太郎は、素直に「上」を見るだけなのだが、一之輔師の与太郎は上を向くだけではなくて、ちゃんと情景を目に焼き付けて帰ってくるのだ。
主体性のある与太郎は、命じられたことを、自分なりに解釈して実行する。自分なりの解釈にあたっては、ちゃんと他人とコミュニケーションを図る意思もある。
与太郎、山下清のようなサヴァン症候群なのかもしれぬ。
インテリの一之輔師、山下清が写真のように情景を焼き付けることができた逸話から、このギャグ思いついたのではなかろうか。客に説明なんかしないけど。
理詰めなギャグとして、見事な定型詩になっている。こんなところにも、演者の教養が自然とあぶり出される。

とっておきの一之輔オリジナルギャグであり、「かぼちゃ屋」のハイライトであるが、一之輔師、まったくギャグに頓着していない。
今回のTVではウケているものの、あまりにも感度の低い客の前に出してしまってウケないこともあるだろうが、それほど気にしないだろう。
笑いを貪欲に欲しがる若手と違い、ふところに余裕がある。どうせまだまだ次のギャグがあるし。
実際にこのあと、「こんなハタチに誰がした」と、昔ふうのギャグをちゃんとカブせて、再び婆さんを大笑いさせている。
客にウケたことも大事だが、「婆さんも与太郎が大好き」だということを、噺の中でしっかり語っているではないか。
そして、実はおじさんのほうも与太郎ギャグと与太郎が好きなのだということまで、ちゃんと語っている。単にギャグのためのギャグじゃないところが見事。

この記事を書くため、私はVTRをもう5~6回視ている。何度視ても面白く、また毎回幸せな気分になる。
与太郎の肚のなさが響いてくるからだと思うのである。
先代柳家小さんの「かぼちゃ屋」は、人を幸せにする力が非常に強い。小さんの人間力のためと一般的には解される。
だが、ギャグ多めの一之輔師の「かぼちゃ屋」も、幸せ力で負けていない。
一之輔師は、小さんよりもうちょっと理詰めに、「与太郎」を徹底的に研究していき、負けないレベルの高みに到達している。

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何回もVTRを聴き直して、新たにふたつのテクニックに気づいた。
一之輔師、「口元を緩めてはきはき喋る」という自分で開発したらしいテクニックを持っている。
与太郎だけでなく、泥棒や甚兵衛さん、場合によっては八っつぁん、実に多くのキャラにこう喋らせる。すると見事なアホ声となる。
本来不自然な発声法だから、聴き手にセリフの内容がきちんと届かなくなっても無理はない。だがそういうことはない。見事な滑舌。
口元を動かさないのを補うため、かなり腹から力を出して発声しているためのようである。
一之輔師、その圧倒的な才能の前提として、基礎技能をしっかり身に着けている。噺をちょっと破壊して悦に入っている程度の噺家さんが到底かなうところではない。

そして与太郎、意外と早口だ。早口で口元を緩めているのに、喋る内容がしっかり客に届く。これは噺家の中でもワンアンドオンリーのテクニック。
早口なのに、客にそう感じさせないのも見事。
キャラにふさわしく、ゆっくり喋っているような錯覚を起こさせるのだ。
この錯覚のメリットは、噺をまき気味にどんどん先に進められて、情報量を増やせること。
結構噺の情報量は多い。だがいっぽうで、「裏通り歩け」「客に逆らうな」など、おじさんが与太郎に注意する数々の情報は、さらっと流してしまう。
客にとっては、聴いたか聴いてないか覚えてないくらいでちょうどいいのだ。どうせあとでもう1回説明するのだから。
耳に気持ちがよく、聴き流せてしまう。でも、噺の肝になる「上を見ろ」だけは、おじさんにしっかり強調させている。
すばらしい噺の編集力。

落語世界を逸脱しない程度に、しかし最大限に跳ね回った与太郎だが、エンディングについては先人の「かぼちゃ屋」に準じている。
「かぼちゃ屋」という噺、「掛け値しないと女房子が養えない」というサゲに向かって突き進むタイプの噺ではないから、変えてもたぶんいい。
でも、なかなかいいサゲではある。もう十分に笑わせたのだから、これでいいのだろう。

天才が、お茶の間に素敵な落語を届けてくれてます。聴かない手はないと思う。
同じ時代を生きられる幸せをしみじみ感じております。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。