池袋演芸場10(柳家小のぶ「厩火事」)

20日の日、池袋中席昼席の千秋楽に行ってきた。
終業式だった息子が付いてきたのだが、友達と遊びに行きたいと言うようなら、ひとりで「亀戸梅屋敷寄席」に行って三遊亭兼好師のトリを聴こうと思っていた。
子供料金が安いのが池袋。セット割で千円である。
夜トリ馬石師のチラシ提示で、子供とふたり、3,000円。
夜トリまでいないのに、馬石師匠、ごめんなさい。東京かわら版割引のない池袋では、チラシ割引が貴重なのです。
学校から帰ってきた子供を連れて、お昼食べてから池袋となると、午後2時になってしまう。中席はとうに始まっている。
息子は夜席の仲入り、雲助師までいたいと殊勝なことを言っていたが、疲れたとのことで、結局昼のトリを聴いて帰ってきた。
まあ、また下席、喬太郎師匠の芝居に来るつもりなのですが。

主任が、(元)幻の噺家、柳家小のぶ師。79歳。
友情出演なのか、もう高座にあまり上がっていない小はん師や、もっぱら名古屋で活躍しているという歌笑師も顔付けされている。
歌笑師には間に合わなかった。
客席、私の予想よりずっと混んでいる。すでに6割くらいの入り。

やなぎ/さん助/世津子/うん平/歌笑

ホンキートンク
扇遊  / 家見舞
小はん / 親子酒
鏡味仙三郎社中
権太楼 / 町内の若い衆
(仲入り)
菊之丞 / 元犬
小満ん / 夢の酒
アサダ二世
小のぶ / 厩火事

ホンキートンクさんの途中で入場。
入れ替え時に座ろうと思い、後ろに立っていたが、演者さんとしてはやりにくかったようで、ネタの切れ目で座るように勧められた。
もう夏休みなんですかと早速の子供いじりをされる。
「向こうは終業式だが、僕らは千秋楽です」。
先日、「ホームラン」師匠を褒めるために、今や「ロケット団」や「ホンキートンク」より面白いのではなどと書いてしまった。
だが、その後聴いた「ロケット団」も、今日の「ホンキートンク」もまた、抜群に面白かったです。
さすが漫才四天王。どうもすみませんでした。
四天王はかわりばんこにTVに出るのだけど、漫才の師匠のライブ感には、TVにも、落語にもない独特のパワーがある。
ちなみに、四天王の残り二組は、芸協の寄席に出ている「ナイツ」と「宮田陽・昇」。みな揃ってますます腕を上げている。

入船亭扇遊「家見舞」

第一のお目当て、入船亭扇遊師匠。いつ以来だろう。
好きな師匠でも、なかなか巡り合わない落語協会の層の厚さよ。
ちなみに、仲入り前の権太楼師匠もいつ以来か。

扇遊師は、「家見舞」。
この前半が、まったく聴いたことのないバージョンで驚いた。途中まで、ひょっとしてまったく知らない噺ではないかと思って聴いていた。
弟分たちは瀬戸物屋でなく、なじみの道具屋に行く。屏風など勧められるが50銭しか持っていなくて値段が全然足りず、そこの主人に「掘り出し物」の肥瓶を持っていけとそそのかされるという展開。
だから、水瓶持っていくのは兄貴分のリクエストによるものではなくて、たまたま。このほうが肥瓶を持っていくにあたり自然な展開かもしれない。
柳家の型ではないので、三代目三木助→扇橋と受け継がれているものなんだろうと思う。
正直、あんまり好きじゃない噺だ。ばっちいからではなくて、どうして世話になっている兄イとその家族にひどい仕打ちができるんだろうという素朴な疑問があって。
だが、こんな珍しいスタイルを聴かされるならありがたい。
品のいい扇遊師は、あまり汚い演出はしない。サラっとしている。

柳家小はん「親子酒」

次が柳家小はん師。75歳のお爺ちゃん。
なんだか知らないがいきなりミラクルワールドに突入。やたら面白い。
落語の世界、このようにやたらと面白いお爺ちゃんがいるところがいい。
噺家さん、みんながみんな歳取って面白くなるわけではないが、お歳を取って、別の生き物みたいになる師匠がいるのが、他芸と違う、落語ならでは。
酒のマクラから、「親子酒」へ。これが絶品だった。
「親子酒」は寄席でたびたび聴く人気の演目だが、若い噺家さんがまったく使わない、いにしえの面白いクスグリがお爺ちゃん師匠の噺にてんこ盛りであった。
寄席で一切メモを取らない私だが、数々の面白いクスグリ、忘れたくなくて、帰ってきてすぐに書き記しました。

「体があったまるものをちょっともらいたいんだが」
「じゃあ、おじやでも出しましょうか」
「あたしゃ熱出した子供じゃないんだ。そうじゃないよ。なんかこう、頭がくらくらするものが欲しいんだよ」
「じゃあ、目と目の間を金づちで引っぱたきましょうか」

婆さんのボケるパワーがすごい。普通は、「くず湯」「からし湯」くらいの小ボケでさらっと進むものだけど。
だが、大ボケかましても噺はまるで壊れない。若手が真似するときは、よほど気を付けないといけないだろう。

「サンズイに酉と書くものが呑みたい」
「あと、乾きものが欲しい。乾きものといってもお前じゃないよ」
なんていうクスグリもあった。文字に起こすとそんなに面白くないけど、直接聴くと笑いが止まらない。
また、親父の酔っ払いの造型も見事でありました。「これでどう見ても酔ってるようには見えないだろ、ヒック」。
小はん師よりは年下と思われる、それでもそこそこの年齢のお父さんたち、実に嬉しそうに高座を見つめていた。

***

仲入り前の柳家権太楼師匠は、「お菓子をもらいに教会に行っていたら追い出された」「明治学院のチャペルで落語の稽古をしていた」マクラから、「町内の若い衆」。
浅い出番とか、ヒザ前で出しそうな、ごくごく軽い噺だけど。
なんでも知ってるうちの息子も知らない噺だとのこと。マイナーな噺でもないけど、子供向けの落語本に載るはずはない。
果たして仲入り前のネタだろうかと思ったが、トリの小のぶ師に敬意を表して軽い噺を選んでいるのかもしれない。
それはともかく、乱暴でテキトーなおかみさんはいいですね。

クイツキの菊之丞師は、「全国飛び回る中で、機内の落語を好奇心でたまに聴く。今月は誰かなと思って機内誌をめくってみたら自分だった」というマクラから、悪い噺家がいて、自分の飼い犬に師匠の名前を付けていじめたりするというネタを挟んで、「元犬」。
菊之丞師のマクラはいつも楽しい。TVでもよく落語を掛ける師匠だが、なるべくマクラがカブらないよう気を付けているみたいである。毎回マクラが同じという師匠もいる中、その努力には頭が下がる。
そんな師匠のマクラは、寄席で聴いても、あまりカブっていないからすごい。噺の付属品でないマクラ、いったいどれだけ数を持っているのか。
「元犬」は、正直私は飽き気味なのだけど、面白いのは間違いない。息子は大変喜んでいた。
これも、なんとなくトリに敬意を表して軽い演目を選んでいる気がする。うーん、権太楼師ともども、もっと派手な演目を聴きたかったのだが、でもそういう他の噺家を立てるところが寄席のいいところでもある。
ちなみに当ブログ、「柳家三三 元犬」「三三 元犬」で検索すると、ありがたいことにトップに出ます。

ヒザ前、小満ん師匠は「夢の酒」。
小はん師匠が、短縮バージョンの小噺「冷やでもよかった」をマクラに振ってしまっているので、出したらいけない演目。
寄席のルールとしては、ネタ帳に小はん師の「親子酒」が記載されている以上、「酒の噺」はもう出さないのが、ツくのを防ぐ対策。だからこのあと、夜席を含めて「試し酒」も「禁酒番屋」も、「替り目」も出ない。
だが、「夢の酒」というのは「夢」の噺で、どちらかというと「天狗裁き」などの仲間。そのためにルールのエアポケットに入ってしまったのであろうか。
たぶん、ツくのを避けるためには、小満ん師匠が前座さんに直接、「小はん師匠、『冷やでもよかった』振った?」と確認しなきゃいけなかったのではないだろうか。
そんな想像に基づく内輪の事情はさておき、「夢の酒」は、私の大変好きな噺である。色っぽいのと、しかし色気よりもさらに楽しいお酒という。
さん喬師などが掛けるが、小満ん師のはとにかくあっさりして力が抜けている。ヒザ前でもあるし。
これで噛まなきゃ本当に素敵な師匠なんだが。小満んファンは、噛むのはたぶん全然気にしてないと思うのだけど。私もそう聴くよう努力しよう。

ヒザはアサダ二世先生、いつもどおり、今日はちゃんとやりますよと登場。
ヒザで重宝されるお爺ちゃんのマジシャンだが、ヒザが多くなったのは最近ではないか?
トリの直前「ヒザ」はトリの噺家さんに信頼されて務めるポジション。落語の寄席に登場する色物さんにとっては最高の栄誉である。
ヒザを務めるにあたっては、面白いだけではダメで、寄席の空気をリセットする力が強く求められる。
アサダ先生、もちろんちゃんとやらない師匠だから重宝される。
適当にマジックをやったりやらなかったりして、噺家さんのむかし話を語る漫談がたまりません。

柳家小のぶ「厩火事」

いよいよトリ。途中から参加したこの日についてはあっという間だが。
しばし、寄席に出ないはぐれ噺家として過ごしたのち、その世界に復活し、トリも取る小のぶ師匠。
暮れに実に見事なヒザ前を見て驚嘆したのであるが、今日は堂々の主役である。先に出た噺家さんから、相当に気を遣われているような感じ。
その落語は、やはり独特のスタイルである。

落語には芝居の要素がある。
芝居としてとらえたときは、リアルな演技のほうが、一般的には求められるだろう。
噺家さんの演技力は確かに極めて重要な要素であるが、しかし落語は芝居とイコールではない。聴き手の脳内に画を再現させて、初めて完結する。
小のぶ師の語り、芝居としてはいささか大げさである。TVドラマではなく、舞台の演技に近いのだろう。だが、舞台だとしても、いささか「大げさだなあ」と思うレベル。
落語で「大げさ」を表現すると「クサい」ということになるが、決してそういうものではない。カチッとした語りがじんわり響いてくる。決して、歌のようにサラサラっとは届かない。
ひとり話芸の側面を強調したときに、この大げさな語りが、たちまち落語世界のリアリティをもって客に届く。
落語というもの、噺家さんの語りと、客の解釈が合わさって成立する。小のぶ師匠の落語は、客の参加する比率が高いみたいだ。このあたりが、絶妙なマジック。
客は、小のぶ師匠の噺をぼんやり聴いてはいけない。聴きながら、自分の脳内に噺をリアルタイムで映し出していく必要がある。
やや大げさな語り口で語られる物語を、客はリアルな芝居に翻訳しながら聴く。客の参加を促しやすい語り口なのだ。
噺に客も混ぜてもらうことで、結果的に満足度が高くなる。
要は客が騙されているのだ。この騙しのテクニックをマスターしたのが、はぐれ噺家のゆえんなのだと思う。
客は、自分の努力を加味して噺を作り上げるのである。この体験は、ちょっと病みつきになりますね。

小のぶ師は先代小さんの弟子であるが、そのスタイルは他の兄弟弟子とはまったく異質である。
飄々とした感じはなくて、むしろ文楽や圓生のほうに近い。
小のぶ師匠、マクラで「厩火事」をやると断って、江戸時代の女髪結いの解説を手短に。
これも不思議だ。そもそも厩火事を聴くにあたって、女髪結いの知識は必要だろうか? サゲの仕込みというわけでもないし。
でも、必要かどうかではなくて、この解説のマクラがとても楽しく響くのである。
噺の世界にトリップするための助走なんだと思う。

小のぶ師匠の噺を聴く客は、噺を自ら取り込んで消化することを義務付けられる。だから忙しくて笑う暇がない。
もちろん、よくできた落語だから面白い。「麹町の猿」のくだり、やたらとおかしいのだけど、忙しいからいちいち笑っていられない。
だが、「笑い」から解放された滑稽噺の素晴らしさよ。
春風亭一之輔師にあこがれて、面白古典落語をしたがる若手の噺家、それはそれで構わない。
だが、落語界には、笑いから解放されている素敵な噺家さんが間違いなくいる。口で言うほど簡単じゃないけど。
正雀師や、ヒザ前に出た小満ん師なども、笑わせる義務からは解放された落語をする。
ただ、小のぶ師の落語、そういう笑いを目的にしていない落語とも違う。明らかな滑稽噺の骨格なのに、笑いはエッセンス程度。
このタイプの噺家さんは、円楽党の三遊亭竜楽師くらいしか思い浮かばない。

サゲが現代にマッチしなくて不快感を与えかねない「厩火事」だが、小のぶ師の語りは生々しくなくて、落語世界からダイレクトに嫌な感じが客に届かない。
落語世界でのリアリティに溢れているということは、現実世界において生々しいということではないのだ。それが落語のマジック。
実に素敵なお咲さんでありました。

昼トリの師匠も、だいたいは幕が下りるまで深々と頭を下げ続ける。
だが、小のぶ師、幕の閉まる前にさっさと引っ込んでしまった。
先日、菊志ん師の昼トリを聴いたとき、菊志ん師は「私は、昼夜入れ替えなしのときの昼トリは、最後までいないもんだと思っていたんですよ。あれ、挨拶したほうがいいんですかね」みたいなことを話していた。
古いスタイルでは、夜に続く昼トリは、とっとと降りてしまうのだろうか。
まあ小のぶ師、いろいろ独自の美学をお持ちの人なんでしょう。

満足して帰途に着きました。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。