超満員の池袋だが、コロナのためか立ち見の人はいない。それとも、入場を打ち切ったものか。
仲入り休憩を挟み、クイツキは古今亭志ん五師。
口を開いて、個人的な話ですが、私友達がいないんですと。場内大爆笑。
そこから数少ない親友、といっても年は全く違うが、三宅島まで一緒に釣りにいったりする、アサダ二世先生との友情の話。
アサダ先生は、ウキを自作するぐらい本気。釣りに関しては「ちゃんとやっている」。
これもまた、鉄板のマクラだし、池袋の客にはよく響く。
手短にやりますと志ん五師。本当に短く、尿意を我慢しつつトイレを探すというだけの新作。
もう、この日一番のくだらない噺。くだらなすぎて大好き。
尿意をこらえてさまよう主人公の前に、薄汚い男が現れる。なんでもトイレの死神らしい。人が尿意をもよおすのはこの死神のせいなのだ。
志ん五師もセリフに混ぜていたが、「トイレの神様」と死神から思いついたようである。
主人公が「あじゃらかもくれん」をやってみるが、トイレの死神は消えない。死神の案内で、尿意をこらえつつ謎の洞窟に連れていかれる主人公。
実にくだらぬ楽しい噺だが、死神を知らない客の前では掛けられないのだけは不自由だな。
池袋なら問題なし。肥辰一代記ほど汚くないのもいい。
この師匠も、いずれ池袋で初トリがまわってくるのではないかな。
ヒザ前は三遊亭天どん師。天どん師のヒザ前は初めて見る。主任を立てる非常に重要なポジションであって、トリを取れる師匠でないと任されない。
私はこの人、今年すでに3席目。めぐり合わせとはいえ、面白いことである。
古典落語も楽しい人だが、この日は当然新作。
喬太郎なんかの主任でこんなに集まって、と天どん師が毒を吐くと、袖から喬太郎師が膝立ちで乱入。
お前なに言ってんだよーと例の新作落語の口調。うっせーよって言ってたっけ? 客、大喜び。
なんでヒザ立ちだったのだろう? 着替えの最中だったのでなければ、師なりの、頭が高いといけないという配慮なのか。
ヒザあたりではよく、乱入ギャグというのはある。すでに一席終えた師匠が出てくることもある。
天どん師のネタだけ演題がわからない。
ツイッターに演題載せている人にもわからないようだ。ネタ下ろしに近いのだろう。
まあ、新作の演題なんて、知らなくたってどうってことはないですよ。
飲みに誘われた男が居酒屋に行くと、倒れている女の子がいる。
それを理由にして、喉がカラカラの主人公にビールを注文させてくれない友達。
なのに、すでに一杯やっている自分は注文をする。
これもまた、きく麿の噺と同じく、どうでもいい会話をぐるぐる回してどこにも話が進まないという、ストーリーも何にもない噺。
古典落語のひとり酒盛がヒントになっているのかもしれないが、雰囲気はまるで違う。
ひとつ言えることは、このストーリーのない噺、実に楽しい。
きく麿師や天どん師を見ると、東京の新作落語は新たな潮流にあるのではないか。
これは決して不自然な傾向ではない。古典落語にだって、こんなしょうもない楽しい噺は無数にある。
ご隠居と八っつぁんの根問いものなど、みんなそう。
楽しかったが、なにも覚えていない。
ヒザはマジックのダーク広和先生。
シン・ゴジラについて熱く語っていたのがやたら面白かった。
細かいシーンまで何度も繰り返し見て、そのシーンでアルバムを作るのを趣味にしている広和先生。
その作ったアルバムで、マジックをいくつか披露。
失敗してやり直してもまるで問題なし。
寄席のマジックは、志ん五師が名前を出してたアサダ二世先生をはじめ、漫談メインのものばかりだが、ヒザには最適である。
ちなみに、シン・ゴジラ、VTR持ってるのにまだ観てない。広和先生のおかげで観たくなりました。近日中に見ると思います。
トリの喬太郎師に続きます。