柳家喬太郎のマクラの秘訣(上)

ついに本日より、平日の寄席も中止の憂き目。両国寄席だけはまだ開いてるようだが。

いずれにせよ寄席には行けないので、仕事をしながら家でVTRコレクションをずっと聴いている。
たくさんあって傑作揃い。ご紹介したいものも無数にあるのだが、あり過ぎて悩んでしまう。
とりあえず、困ったときは柳家喬太郎師。キョンキョンについて書こう。
もっとも喬太郎師でも、古典か新作かで今度は悩んだりして。
いろいろ考えた末、今日は喬太郎師の落語本編ではなく、マクラの技術について取り上げます。

喬太郎師のマクラには定評がある。
マクラというより、独立した作品という趣。有名なのがコロッケそばである。
時そばやそば清のマクラに振るエピソードが長くなり、そして漫談から普遍性を持つ噺にまで進化したというもの。
世に出ていくコロッケたち、擬人化された彼らがとてもかわいい。
だがこのような確立したネタに限らない。客に与えるその気持ちのよさの正体を掘り下げてみたい。

もともと一流の噺家は、客に対峙するスタイルから練り上げている。マクラのネタが面白ければ、それでいいというものではない。
客と気持ちが通い合わなければならない。そもそも落語本編の前にマクラを振る意味を考えれば当然。
古典落語に入ってしまえば、演者と客とは落語そのものによってつながる。上手い下手はあるにせよ、とりあえず聴いていられる。
だがマクラで気持ちが通い合わないと、本編に対してもハンディになってしまうことがある。
いつも同じマクラを振る噺家もいる。だいたい、ある程度のベテラン。
恐らくいろいろやってみて、自分にはマクラで沸かせる才能がないと気づいたのであろう。
その結果、噺本編へのマイナスとなる要素を極力排除していって、固定のマクラのみを振るようになるのだと思う。それで成功している人はいい。

だが、常に違うネタを用意している噺家の中にもいろいろいる。
自分の武器として毒舌を使うところまではいいのだが、毒を吐くということは、客にネタが刺さらないことも覚悟せねばならない。
この代表が、芸協で抜擢が決まった桂宮治。
私など、彼の高座のうち半分で脱落してしまう。残り半分は絶品なのだけど。
客を選ぶ噺家になろうとしているのだろうか。なら仕方ない。私は選ばれなかったのだから、聴き続けることはできない。

いっぽう喬太郎師は、楽しいマクラが人の気持ちに沿わないことはほとんどない。
かなり攻めている。毒もたくさん入れている。それにも関わらず。
秘訣はどこにあるのだろう。

昨年末のM-1グランプリからこのかた、「人を傷つけない笑い」「人を傷つけないツッコミ」が注目されている。
おかげで、ぺこぱもずいぶんお見かけする。
だが、優勝したミルクボーイは、どうみても人を傷つけないことを目的にしている様子ではない。
現に、モナカが2個以上食べられないとdisり、コーンフレークを煩悩の塊として切り捨てている。
モナカやコーンフレークの業界が喜んでいるからといって、「人を傷つけない」というのはどう考えても結果の問題に過ぎない。
喬太郎師は昔からこのような、結果として人を傷つけない構図を高座に持ち込んでいたのだ。
なぜそんなことができるか。
これを解明すると、喬太郎師とミルクボーイの秘訣が同時に解ける。はず。

喬太郎師の秘訣、3要素。

  1. 高座用キョンキョンの構築と維持
  2. 仮想の敵を作らない
  3. ギャグを客に対してぶつけない。拾わせる。

噺家は、みな素のままで高座に上がるわけではない。色物の芸人を見てみれば一目瞭然。
もっとも色物さんがみな、表面的にわかりやすい個性を作り上げてから舞台に出るのと比べると、噺家はそれほど極端ではない。
理由は簡単で、噺家は演じ分けをしなければならないからだ。あまりにも強い個性は障る。
派手な着物の古今亭寿輔師だって、ツカミは当然いい。だがその先失敗したら目も当てられないわけで、相当の苦労があるのである。
とはいえ、噺家はむき出しで高座に上がるわけでもない。
珍しくもむき出しで上がっていて、それが大きな欠点になっているのが、当代林家三平師だと思う。

キョン師は、高座用の人格を完全に作り上げることに成功している。
素顔の喬太郎師とまったく違う人格というわけではないだろう。だが、恐らく素人の時代から作り上げ、噺家になってもずっと維持し続けてきた顏である。
客が好きなのはみんなこの、作り上げたキョンキョンなのだ。
素の喬太郎師、本名小原正也には、それほど強い興味は持っていない。SNSもしない人なのでよく知らないし。
作り上げたキョンキョンは、非常に人格のバランスが取れている人物であって、腰が低い。
たまに狂気を見せてくるが、狂気じみた側面も人格の一部であって、ファンに愛されている。
狂気が素の喬太郎師から直接やってくるのか、あるいは喬太郎師の感性を栄養にして、純粋培養されたものなのかは誰も知らない。

こんなことやり過ぎると、素である、とても暗い自分を仮面で覆い、仮面と素の自分との区別がつかなくなるまで仮面をかぶり続けようとした決意した桂枝雀になってしまう。
まあ、こういう悲劇は喬太郎師にはないだろう。高座のキョンキョンでもって私生活を送る必要はないからだ。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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