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千早ふるは寄席で重宝される噺。だが、決してトリネタではない。
日本の話芸の28分の枠にはやや長いので、マクラが長い。
千早ふると関係ないマクラから。
「昔は歩いて旅をするので大変でした」なんて、旅の噺のマクラを疑問なく振るが、これおかしいじゃねえかと言った談志のエピソード。
今後リニアなど発達し、大阪まで瞬時に行けるようになったときに噺家は、「昔は新幹線という乗り物で、大阪まで2時間半も掛かったそうで、大変でしたな」なんて言うのかと。
さすが目の付け所が違うなという、小遊三師の談志評。
確かに、他の噺家が考えずに喋っていることに常に疑問を持つ姿勢は見事だ。
こういうユニークな視点を真似しようとして、頓狂なコメントだけ残すのが弟子の志らくだが。
脱線した。
そして小遊三師の少年時代の話。
食事は黙って食えという家庭だったが、蛍光灯の入った日はちょっとした騒動だった。
蛍光灯によって、家族がひとつになったのだと。
つい最近小遊三師、水前寺清子の「人生は三百六十五歩のマーチ」という徹子の部屋みたいな番組にゲストで出ていて、このマクラと被るエピソードを披露していた。
チーターが小遊三師の落語を「いちばん品が良くて品が悪くていい」だって。同感ですな。
芸協の副会長時代は歌丸師匠のイエスマンだったとか、入門時のエピソードとか、実に面白いトークだった。
会長にならなかった理由も腑に落ちる。
本編に入る。隠居を吉さんが訪ねてくる。まあ、八っつぁんでも金さんでもいいのだが。
千早ふるという噺、わりと手を入れやすい。同じ芸協でも瀧川鯉昇師など、もう解体して組み直すぐらい手を入れている。
だがいつも楽しい小遊三師なのに、そういうスタイルとは違う。意外と手は入れない。
実はある意味、「本寸法」の芸。そうは思わない人が多いでしょうが。
この隠居は確かに数ある千早ふると比べても、相当にふざけている。だが、ふざけた隠居を活躍させるためには、きちんとした枠組みが必要なのだということだろう。
ギャグは入れるけども、今風の、世界をひっくり返すような強烈なギャグではない。面白いがどうでもいいクスグリでもって、客をリラックスさせるのだ。
そして、超ベテランなのに非常に声を張る。
声を張るのは立派だが、このスタイルにより、声のトーンを変えて笑いを取る手法は、最初から採れない。
ふざけた小遊三師を期待し過ぎると、かっちりした噺の枠組みに戸惑う人もいるかも。
他方、壊した落語だという勘違いした前提で眺めると、ギャグ自体は言うほど多くなかったり。
落語というもの、好みはあっていいがトータルで捉えないとわからない。
トーンは変えないが、噺のメリハリは一級品。なんでもない一言で客は笑う。
むしろ噺の隅々を埋めているユーモアを大事にするため、ギャグは意外と厳選されている。
つまり、ユーモアに貢献しないギャグは使わない。
世界観を揺るがすような破天荒なものはむしろ避け、軽いのを選りすぐる。
そのどうでもよさが楽しい。やはり、どこかふざけている。ふざけた本寸法。
千早ふるの隠居にも、いろいろなタイプがいる。
知ったかぶりを客にまず見せてしまうという人もいる。なぜか八っつぁんだけ気づかないのだけど。
だが声を張る小遊三師の隠居、敵に一切後ろを見せない。やかんの先生のごとく、少しもたじろがない。
歌のわけを教えてくれという吉さんに対し、堂々とまともな説明をしないで押し切る。
歌のわけを切れ切れに説明するというのは誰の話にもある部分。
小遊三師の隠居は、ピッチャーのフォームで歌のわけを説明しようとして、肘が肩より下がってると肩壊すよとか、もうわけがわからない。
適当なことを言ってるのに、決して逃げない隠居。
堂々としているというか、もはや乱暴な隠居だが、おかげで吉さんはたじろぎ気味だ。
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