三遊亭小遊三「千早ふる」(上)

当ブログ、3年半毎日更新を続けていると、意地になってきてしまい、休みたくない。
大して金にもならないのに。
だけど寄席も落語会も、緊急事態宣言でどこもやっていないし、そもそも行けない。
ネタがない。
TVの録画コレクションでなんとかしのぐことにする。

最近、付けっぱなしで繰り返し聴いているのが三遊亭小遊三師。
弟子の遊雀師、遊馬師ともども1枚のBDにまとめている。ついでにナイツも一門なので一緒に。
笑点メンバーの本業としては、お隣の三遊亭好楽師と並んで好きな師匠である。
小遊三師、国立演芸場の4月中席は主任だったのだが、もちろん中止。

その小遊三師の落語、もしかすると落語の中級程度のファンは、あまり聴いていないのではないかという気もする。
小遊三師を好きなのは、笑点から入ってくる初心者と、そしてマニアックな落語ファンの両極に分かれる気がしているのだが。
プロの噺家になると、もう間違いなく小遊三師の落語が好きなはず。

初心者にとっては、小遊三師の噺はなによりわかりやすい。
そして秩父ネタが混ざったり、独身昇太ネタ(もう使えない)が入ってくるので楽しい。
だが中級者になると、「小遊三は、昔はおもしれえなと思ってたんだけどさ、笑点以外に上手い人がたくさんいるのを知っちゃうとどうもね」なんて言ってるのではないか。
その先マニア層になると、間違いなく新たなすごみが見えてくるはず。技術的に極めて高い人なので。

お前はどうなんだと言われると、私の場合、上級者層まで行ったと偉そうなことまでは言えない。
中級者として、小遊三師についてうろうろと楽しんでいる感がある。
単発で聴いていると、小遊三師の噺につき「面白いけどな。他の師匠の同じ噺のほうが面白いな」になることがある。
軽さというのは落語においては褒める要素。小遊三師の軽さについては、まったく申し分ない。
だが、もしかするとコクのない感がある。なるほど人情噺をやらないだけのことはあるなという。
そんなイメージの小遊三師、複数の噺を流しっぱなしにしていると、また違うものが見えてくる。単発で聴いたときよりも数段ハマるのである。
どういうことかというと、単発なら師の落語世界を理解するにとどまるが、続けて聴くとその世界にどっぷり浸かることができる。
どっぷり浸かると、こんなに楽しい師匠はいない。

好楽師はとぼけている人だが、小遊三師はふざけている人。
ふざけたまま、落語をやり切ってしまう。しかも、笑点大喜利と同じモードで。
ふざけた人は楽しいが、古典落語をふざけてやるということは危険でもある。
噺の枠組み自体をふざけてやるとぐずぐずになってしまう。でも、枠組みまでふざけないと、いささか中途半端だ。
だから小遊三師のふざけ方は、肝が据わっている。徹底したふざけ方なのだ。
一生ふざけさせてくださいと妙見様に願掛けしているぐらいのふざけ方。

ちなみに、このBDに収めてあるのはこんなラインナップ。

  • ん廻し
  • 汲みたて
  • 代り目
  • 金は廻る(持参金)
  • 千早ふる
  • 付き馬
  • 浮世床
  • らくだ
  • 置泥
  • 百川
  • 蜘蛛駕籠(途中まで)

「汲みたて」は、以前取り上げた。
スケベな男ども、そして半ちゃんキャラの江戸っ子たちを描き切った、小遊三師のためにあるような、底知れぬ名作だと思う。
「浮世床」「ん廻し」なんてのも、江戸の若いもんたちのやり取りがとても楽しい、笑点のキャラと同じ、この師匠らしい逸品。
浅草のトリで出している「代り目」では、遠慮のない夫婦同士のやり取りを描き切る。
噺の最中に出した「ヨネスケ」を受けて、高座にヨネスケ師が乱入し、どこまでやったか続きを忘れてしまうチャーミングな小遊三師がたまらない。

その一方で、たとえば「付き馬」や「らくだ」は他の師匠のほうがいいなと、思ってしまう自分もいるのである。
だが、そんなのも、同じ小遊三ワールドの中で聴くと、たちまち価値が一段二段上がって耳に届くのだ。
その価値を新ためて見直した。

「代わり目」と迷って、日本の話芸の「千早ふる」を取り上げることにする。
2017年5月19日の収録。
これは若い衆たちのワイガヤ噺でもないし、色っぽくもない。
だが、ふざけたストーリーテラーである隠居がもうたまらない。要は、等身大の小遊三師の姿である。

明日はこれを。

 

作成者: でっち定吉

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