TV落語愛好家の丁稚定吉です。
ラジオも好きです。野球シーズン中は、Radikoで聴ける落語はほぼ上方オンリーだが、それはそれでOK。
TVのほうは、毎週楽しみにしていた「浅草お茶の間寄席」が映らなくなってしまい頭を抱えている。
喬太郎師の番組も終了し、現在録画できるのは「落語研究会」と、「演芸図鑑」「日本の話芸」「ミッドナイト寄席」だけだ。あとは笑点特大号のプレミアム落語と、CSの無料放送がたまにある程度。
編集にひいひい言っていた頃から比べると、随分さみしくなってしまった。ひいひい言いたい。
NHK日本の話芸は、相変わらずその人選がよくわからないが、ベテラン笑点メンバーは定期的に登場する。
つい最近、三遊亭小遊三師が出ていた。演目は「汲みたて」。
珍しい、しかも変な噺であるが、私はかなり好きなのである。五街道雲助師のCDを買ってしまったくらい。
随分前だが当ブログでも1週間に渡って取り上げた。現在、検索では容易に引っ掛からなくなってしまいましたがね。
落語の演目は無数にあるが、登場の頻度は大きく異なる。
そのときの流行もある。一時期すたれていた「野ざらし」なんてよく出るようになった。「湯屋番」や「だくだく」等、妄想系は最近かなり増えたんじゃないでしょうか。
寄席で日常的に聴く楽しい噺もあれば、たまにしか聴かない楽しい噺もある。中には珍しいだけという噺もあるが。
小遊三師の「汲みたて」は、たまにしか出ない噺にしては、随分練られていてすばらしいもの。元をたどれば恐らく圓生から来ているんだろう。
本来、もう少し時間があったほうがよさそうな噺だけども、28分で実にコンパクトにまとまっている。寄席のトリで聴きたい内容。
これをひとつ取り上げてみます。
DVDが出ているが、カップリングが「味噌蔵」ってなんかすごい。クソとミソだ。味噌蔵もそんなには出ない噺。
昔の寄席ではきんちゃん(客)がひとりしかいないこと、ツ離れしないことがよくあったというマクラ。
そんなさみしい昔から、昨今は女性のお客様が増えていかにありがたいかと小遊三師。
まるで客席に花が咲き乱れているようだ。ダリア、フリージア、ポインセチア。チワワ、プードル、ブルドッグ。
ギャグからしてリズミカルなのはこの師匠ならでは。
すでにマクラから、笑点でおなじみのスケベキャラが全開だ。このキャラでもって古典落語を一席やり切ってしまうんだからすごい。
「おとこ教室」の看板を見て驚いたが、よく見たら「おこと教室」だったという自身のギャグから稽古屋のマクラへ。
人間落ち着かなくっちゃいけないなと、これは粗忽の釘。
かつて稽古の師匠はともかく、女でなければならなかった。
オツな年増の女師匠目当てに夏だけいる「蚊弟子」連中が、冬まで生き残るとヤブっ蚊。上手いこと、スッとコタツへ持っていく。
師匠の手だと思い、コタツの下で男同士手を握っていた小噺。寅さんにも引用されていた。
私も愛してやまないこの小噺が、小遊三師の手に掛かると楽しさ爆発。「握ることに意義がある」んだって。
小遊三師は、実のところはちっともいやらしくはない。女性に好かれるのはそういう点だと思う。
落語を聴いて性欲亢進する人などいない(と思う)。そんなものNHKでは放送できない。スケベな男どもを嗤うのが、落語の真骨頂。
小遊三師は、「いやらしさ」というキーワードの扱いが極めて巧みな噺家なのだ。そういう人はなかなかいません。
そして、バカな若い衆も非常に上手い。この組み合わせでできた「汲みたて」が面白くないはずないのだ。
雲助師のようななんともいえない艶っぽさとはちょっと違うのだが、下心満開の男たち、そのバカさ加減がやたらおかしい。
この楽しいコタツのマクラ、残念ながら出番が少ない。「あくび指南」の前に振ることが多いが、ちょっとつながりがスムーズでないというのは、当ブログで繰り返し書いている。
楽しいマクラのためにも「汲みたて」自体復権してほしいものだ。復権する前にそもそも流行ったこともなさそうだけど。季節も選ぶし。
この噺の向いている人、たくさんいると思うのだけどなあ。たとえば菊之丞、白酒、遊雀、左龍。文蔵師もいいと思う。
あと、ハメものの本場、上方に持っていってくれたらという野望も先の記事に書いた。与太郎は上方落語には登場しないので、換骨奪胎は必要だけど。
師匠の「御開帳」を拝もうとしてバチがあたった小噺は本編の一部を成しており、実にスムーズ。あくび指南よりも、噺の流れにおいて断絶がずっと少ないのもいい。
みんなが狙っている女師匠に男ができて、それがまた、皆の気に食わないことに建具屋の半公である。
半公なんてのは、小間物屋のみい坊に岡惚れしてるのがお似合いの野郎である。そんな奴が師匠のイロだなんて、若い衆からすると気に食わないことこの上ない。
だが当の半公は、別に噺の中ではそれほど個性的なキャラではない。これは、東京落語の大きな特徴。
半公について憤っている若い衆たちも、半公の分身みたいなもんだ。個性はひとりひとりのキャラにではなく、集団を俯瞰した部分にこそある。
いきいきと跳ね回る若い衆に、小遊三師の十八番の「提灯屋」がかぶる。
半公と師匠の仲を探ろうとして、甘納豆だけ食べて帰ってくるシーンもまた楽しい。
「汲みたて」は、明烏と並ぶ、二大甘納豆巨編だ。他にあるか知らないが。
東京の落語は、ワイガヤをやっている若い衆のひとりひとりの個性は薄い。喜六と清八が頑張っている上方との違いである。
しかしそこに、唯一の個性的キャラ、与太郎が出てくる。
通常は主役を張る与太郎は、この「汲みたて」では、助演男優の立場で登場するのだ。
珍しい役どころだが、この噺は与太郎がいないと成り立たない。与太郎だけは、噺の彩りではなく噺を変容させるキャラである。
私は与太郎に関しては大変うるさいのである。ただの知的障害者として描写して欲しくはない。与太郎は、神の使いみたいな存在だと思っている。
小遊三師の与太郎は、そんなに数を聴いているわけではないが、実に爽快感溢れるキャラ。
なるほど、弟子の遊馬師などにも引き継がれている与太郎だ。
この与太郎、無害だから女中替わりに女師匠の世話をしているわけで、男としては対象外。中性的な性質を持っている。
だが、本当にそうだろうか。口を開けっぱなしの与太郎、「口を結ぶと息ができない」などと言っているのだが、これはあくまでも、与太郎の表面的に無害な性質を描写するためのギャグだろう。
そこそこややこしい人物造型なのが「汲みたて」の与太郎。常に面白いことを探すのに余念のないキャラである。
半公と師匠の痴話喧嘩の様子をペラペラ喋り、若い衆たちを悲劇のどん底に突き落とす、愉快な与太郎。
そして噺のキーワード「うぞうむぞう」まで喋ってしまう。しかも、有象無象を口にするのは半公ではなく、師匠のほうである。
単なる馬鹿ではなく、若い衆を焚きつけて楽しむ、腹黒い与太郎。
実のところ、ただ嫉妬に狂っているが、自分たちではそれを認めず「有象無象」呼ばわりされたことへの怒り、および今までの恩を忘れやがってと解釈する若い衆。
といっても、若い衆たちも小遊三師に掛かると、終始ふざけている。復讐のためなのか、楽しんでいるのかよくわからない。多分両方なのだろう。
江戸っ子だねえ。語っているのは、大月出身の江戸っ子。
小遊三師ならではのキャラが、豆腐屋の源さん。師匠の船にピーピードンドン、鳴り物で邪魔する際に、源さんのラッパが入って大活躍。といって、間抜けにプープー鳴るだけなのでまったく役に立ってない。
そこから小気味よく一気に「糞でもくらえ」「糞持ってこい」「一杯どうだね」でトントーンとサゲ。
すばらしい一席。実に難しいであろう噺が、非常に練れている。
歌丸師亡き後の芸術協会を背負って立つ芸といえましょう。