桂春蝶という、愛人DV事件を起こした哀しい噺家がいる。
刑事事件になっていなくても、傷害は立派な犯罪。
悪い人が出てこないと評される落語の世界だが、演者に悪人がいることもあるのだ。
事件がフライデーされたときに一度降板になったラジオ、その後復帰したのだが、3月で打ち切られた。
radikoプレミアムに入ってるから、東京からも聴けるが、聴いたことはない。
聴かないのは、立川志らくの番組を視ないのと同じ理由。
いずれにせよ、犯罪者にメディアの仕事がある世の中がいいとは思わない。
さてコロナ禍の昨今において、わざわざDV噺家の社会的地位を貶めるのが今日の目的ではない。
春蝶のラジオ打ち切りを調べていて、面白い記事を見つけたのだ。
桂春蝶「ライブビジネスで“公平公正”に出番を与えるのは『貧弱な共産主義』や!」
天満天神繁昌亭の番組の出番が、公平に回って来すぎるというのである。
それどころか、もっと平等にしろと叫ぶ会員までいるのだと。
面白い人、売れる人が多く出て当たり前だろうというのが春蝶の主張。
うーん、これはわからないでもない。
上方落語協会にも250人ほど噺家がいる。それほどの大所帯であれば、腕は当然ピンキリ。
ピンにもキリにも、公平に出番が与えられる平等主義は、間違っているようにも思える。
コロナがなければ、3月末に我が家は大阪に行こうと思っていた。
数年住んでいた大阪にも、近年少々ご無沙汰している。
繁昌亭も恥ずかしながらまだ行っておらず、神戸新開地の喜楽館ともども訪れようと思ったのである。
だが繁昌亭の番組を見ていると、春蝶のいうような悪平等の気配を感じないではなかった。
東京にはない番組の作り方だ。
選ばないで行ったら、大外れということもありそうな番組作りだなと、これは日ごろから思っていた。
春蝶のラジオの発言をまとめた記事を読んで、腑に落ちた。協会主導でそうした番組を作っていたのだな。
大阪にいわゆる落語の寄席は、一か所しかない。競争原理が働きようがないのだ。
そうなると、上手いのも下手なのも、同じように出てくることになるのはある種の必然。
極悪非道の犯罪者とはいえ売れてる春蝶からすると、それが気に食わないのだ。
だが、ちょっと違うなと思う。
私自身は、選りすぐられた精鋭の揃う寄席を客の立場でいつも体験している。
もっともよく行く池袋演芸場は、特にこのセレクト感が顕著。ここは持ち時間が長いというのも、セレクトの理由になるだろう。
人数の多い落語協会の席だと、特に選りすぐられた感がある。
毎月出ている人がいるいっぽう、池袋にはまったく呼ばれないか、出られても年1回なんて噺家は、実に多い。
メディアに出ている噺家だって容赦ない。林家三平師なんて本当に見ない。
ラジオ・NACK5の名物パーソナリティである三遊亭鬼丸師だって、とんと出番がない。埼玉の出先機関である池袋なのに。
このような精鋭を集めた番組作りがなぜ可能か。
それは、席亭が番組を作るからである。あくまでも席亭の出したい人(=客を呼べる人、寄席のバラエティ化に貢献できる人)を呼ぶのだ。
もっとも、いつも出ていればカネになるのかというと、そうでもない。寄席は生活の場ではない。
噺家は寄席に出るものだという噺家自身の認識を基に、選りすぐった番組が作られる。
このような確立した仕組みなくして、繁昌亭の番組に差別化を図ることがそもそも可能か?
面白さなんて、一体誰がどんな基準で決めるの?
そう考えると、繁昌亭の番組が現状甘いとして、私はそれを非難する気になれない。
大阪に寄席が2つも3つも建ち、競争の原理が働く日が来ないうちは、セレクトなんてしようもない。
そうした現状を思えば、「平等に出す」というのも、ひとつのスタイルなのだ。ベストではないが、ベター。
春蝶が言うような「共産主義」ではない。
これを崩そうとするなら、別の基準を作り上げないと。
理想の席を作りたいなら、「売れてる俺を出せ」ではなく、金を掛けて寄席の席亭になればいい。
それに、寄席はショーウインドーなのだ。地方で落語会を主宰する人は、寄席に来て呼びたい人を決める。
カタログとして見たときには、いろいろな噺家がいたほうがいい。
東京でも、国立演芸場の定席や、上野広小路亭の芸協の定席は、わりとこのような互助的な番組になることがある。
東京は、寄席組合に入っている四場に優先権がある。国立や広小路亭、横浜にぎわい座は、四場に取られなかった人で番組を作らなければならないのだ。
まあ、四場と掛け持ちしている人もいるから、ちょくちょく例外はあるのだと思うけど。
こんな顔付けの番組、よく行くなと思って眺めることもなくはない。
広小路亭の、諸派合同でやってるしのばず寄席も、そんなことがある。
でも、そんな席にも初めて行く人がいて、「落語って意外と面白いわね」という感想を持って帰るかもしれない。
東京の落語協会にも、「みんな出そう」という互助的な席がある。
それが、協会員自らで顔付けをする黒門亭。会場は協会事務所の2階であり、ここに席亭はいない。
そんな席でも、好きな顔付けを選んでいくと面白い。
40人しか入れないのに、トリの師匠がすごいビッグネームだったりもする。さすがに喬太郎師は出ないけど、一之輔師は出る。
そんな満足度の高い席に、売れない人が混じっていても、普通にやっていればそれほど悪い感想にはならない。
逆に、売れていなくても秀でた人もいて、そうした噺家に巡り合える喜びだってあるのだ。
まれに、3人分ぐらいひとりで平気で潰す、とんでもない地雷もいるけど。
だから、客にとって平等がまったくの悪かというと、意外とそうでもない。
競争が働くことのメリットは知っているけども、競争には基準が必要。
そんな平等にいろいろ出る席から、好きな人を見つけて、厚めに通っていけばいいだろう。
さて黒門亭は、コロナで真っ先に閉まってしまった。私は再開を心待ちにしている。