私は本寸法という落語の用語は決して好きじゃない。格式張って、なにかを切り分け切り捨てるニュアンスがあり、傲慢に思えるからだ。
だから普段は使わない。
だが、「破壊しない古典落語」のことを指して使うなら、結構気の利いた言葉かもしれないと思っている。
破壊する落語はダメというんじゃない。破壊しない一歩手前で踏みとどまることを、本寸法といってみる。
笑いの大きい小遊三師の落語であるが、ある種本寸法なのだ。
小遊三師だって、クスグリをもっと放り込み、ギャグまみれの落語にすることだってできるだろう。だが、そうしないところに味がある。
そしてこの男ふたりだけの会話で成り立つ「千早ふる」、漫才としても非常によくできている。
本寸法の落語と漫才との共通点は、キャラクターをしっかり分けて、やり取りでもって笑わせること。ギャグそのものは、キャラクターづくりの背景として機能する。
ボケ役の隠居が、どんどん話をエスカレートしていくのが見ものだが、ツッコミ役の吉さんも、客の気持ちの変遷に沿った見事な腕。
隠居が女乞食を出したりする際に、「いろんなもんが出てきますね」とツッコむことで、客はよく笑う。
やはり漫才っぽい。
近頃流行の漫才コントとして、役割を割り振られた二人が舞台の上で掛け合っている画が想像できるではないか。
これが小遊三師の落語の秘訣か。
長い和歌をどこかで切ろうという隠居。たまたま切ったところが竜田川だった。
金太郎飴ですねと吉さん。さすがにこのあたりからいい加減、隠居の暴走に呆れている。
竜田川を、川の名前と思うかと訊かれ、じゃあ川の名前でいいですよと答えるが、案の定裏切られる。
徹底して口の悪い隠居だが、「畜生のあさましさ」とは言わない。やり過ぎない小遊三師。
竜田川の女断ちから、吉原に話を持っていく。このあたりは結構スピーディ。
お前吉原って知ってるか、川上とバッテリー組んでた人じゃないよと隠居。
その人戦争で死にましたよと吉さん。
吉原正喜という、戦前に巨人にいた名捕手のことだ。話の本筋とまるで関係ないけど。
だんだん吉さん、隠居のウソ話が楽しくなってくるみたい。もはやウソなのはわかってるのだが、ウソの行きつく先を知りたい。
正確にいうと、嘘つき隠居に突っ込んでいくのが楽しくなるらしい。やかんタイプ。
ちょうど昨日、NHK演芸図鑑で小遊三師、やかんの前半である「魚根問」を掛けていた。この先生もかなり乱暴。
一か所だけ、千早太夫を見て「ブルブルっと震えた」竜田川に対して「マラリヤですか」と吉さん。
ここだけツッコミ役がボケているが、そんなにウケない。
隠居に「震えたったってマラリヤじゃないぞ」と言わせてツッコむほうがいいなと思ったが。
そして隠居のほうは、ウソを吐きとおそうという企みは、もはや完全にない。
聴き手のいる架空の話を、楽しいボケを入れつつ進めることに喜びを見出すのである。
竜田川の豆腐屋の前に井戸があるなと隠居。もうなんでも好き放題こしらえてくだせえと呆れた境地の吉さん。
そして、千早を土手にぶつけて返ってくる「ドン」「パン」の音で、ドンパン節を歌い始める。
呆れながらなにしてるのか訊く吉さんに、乱暴な隠居は「暇だからだよ」。
そういえば和歌を切る理由も「長いからだよ」だし、とことん適当。
この先どうなるんですかと訊く金さんに、この話はここでおしまいだよ、あたしが作者なんだから、終わりっていったら終わりだと。
ウソだという自白が噺に出てしまっているのだが、まるで不自然ではない。
私は、「つる」で桂枝雀が始めた、「隠居の話がウソだと気づいているがあえて話にいく」という演出が大嫌い。
だが、小遊三師の千早ふるで嘘がバレているのは実に楽しい。その後もフィクションが続いているからなのだろう。
「とは」は古いタイプで、千早の本名。
こんなところからも、意外とその本寸法ぶりがうかがえるではないか。
何度聴いても楽しい佳品であります。
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