隠居と八っつぁんのボケ・ツッコミ対決というのは、一之輔師の場合、他の噺にもみられる構造。
たとえば「短命」。
これも、2018年の毒炎会の爆笑の一席。
千早ふるとは違い、ボケる(天然含む)八っつぁんと、ツッコむ隠居。
だが、雰囲気はとてもよく似ている。ボケがツッコミになっても、やっぱり隠居は乱暴だし。
これもまた、年齢の離れた二人の仲の良さなどというしっとりとした落語の風情はうっちゃって、ひたすらがっぷり組み合って対決している。
これは要するに、友情というより「相方への愛」なのである。
隠居と八っつぁんは、コンビ愛で結ばれているのだ。現代人に非常にわかりやすい関係性。
毎日こんな楽しい噺を聴きつつ、人情噺の「鼠穴」も一緒に聴き、何度も聴いてるのにたちまち打ちのめされたりなんかして。
やはりこういう系統も取り上げないとと思う。
千早ふるに戻る。
べっぴんさんの全消去で、なぜかキレる隠居。
八っつぁんは隠居に「古典ですか」と尋ねる。ますますもって、喬太郎師っぽい。
だが喬太郎師以外の他の師匠の要素も結構感じる。それがまた楽しい。
千早ふるを十八番にしている、文蔵師や鯉昇師の要素が一之輔師に現れている。
「百人一首」が出てこないというのは、普通のクスグリ。だが、結論を「百鬼夜行」にしたまま、先に進んでしまう一之輔師。
このあたり、文蔵師から来ていそうだが、本人オリジナルが炸裂。
在原業平がうろおぼえで、ちゃんと思い出せない八っつぁん、隠居は、そいつは「カリフラワー・カリフラワー」だと断言する。
これ、柳家花飛さんが、前座時代フラワーだったエピソードから引いているのだろうか。
「カリフラワーがぷかぷか笑ったよ」なんて、ちょっとした教養を入れてくるところもまた、一之輔師っぽいのだ。
本当は、「かぷかぷ」笑ったんだけど、クラムボンは。まあ、多少は間違いもある。それより、先に出したサラダ記念日に加え、賢治を思い出すセンスが見事じゃないか。
ちなみに、マクラからこのかた、この千早ふるに出てくるギャグの全部をいちいち取り上げたらキリがない。
キリがないし、またすべて紹介するようなことをすると無粋だし、師匠にツイッターで苦言を発せられるかもしれない。
涙をのんで省略しているのである。ま、素人の書くブログなんて読んでいないとは思うが。
それにしても、千早ふるの本来のストーリー、全く進まないのがすごい。
この噺は、本当にクスグリだけでできているのだ。クスグリ抜いたら、噺がなくなっちゃう。本当に。
これも、漫才だと思えば非常にわかりやすい。漫才で「俺、○○になってみたいんだ」なんて導入は、ギャグの触媒に過ぎないし。
千早ふるのストーリーは、一之輔師にとってはほぼ借りもの。そこにギャグを積み上げていく。
わからないのは、こんな作り方をしていて、高座をぶっ壊すことがないということ。噺はぶっ壊すが。
なぜだろうと考えたとき、なるほど、これは漫才であると思えば理解しやすく、さらに新作落語だと思えば、さらに深く理解ができる。
落語では、必要以上に笑わせちゃいけないというのはある種の強固な共通認識。一之輔を抜擢した小三治だっていつもそう言っている。
小三治嫌いの私だって、そのことを全然否定はしない。
だが、なぜそうなのか。笑わせることによって、落語の屋台骨が崩れてくるからだろう。
さらに客も疲れ果てる。
だが、既存の古典落語と別の体系に乗っていたとしたらどうか。ボケとツッコミとが、喧嘩になりそうでそうならない、ギリギリのせめぎ合いをする、そのためのギャグの数々ならば。
そしてこの噺が、新作落語のステージに載っていることに気づく。
楽しいのに、それほど疲れない。耳にも心地いい。なるほどそういうこと。
ギャグでできたこの噺には、まったく歌のわけがわからない隠居が、話をごまかそうとする描写は一切ない。
不要だし、ないほうがいいのだ。
それに実は隠居、無知じゃないのだ。古今東西、さまざまなエピソードを知っていて、その気になればどこからでも持ってこれるのである。
ダラダラ引き伸ばしつつ続きます。