春風亭一之輔「千早ふる」その5

笠碁/夏泥

一之輔師の前に小遊三師の千早ふるを出した。
別に比較しようと思ったわけではない。楽しみ方はだいぶ違うし。
だが、結構重要な共通点があることに改めて気づく。それは、千早ふるの隠居が魅せるウソツキ芸に、徹底して迫ること。
どちらの隠居も、主体性に満ち、やる気満々なのである。
「知ったかぶりの隠居がわからないことを質問され、しどろもどろながらアドリブで答える」という、古典落語の枠組みとは異なる造型なのだ。
どちらにも、いわば演者にとっての芸人論が隠れている。
協会が違うから一之輔師が小遊三師からどれだけ影響を受けたかわからないが、こうやって後の世代に問題意識が引き継がれていくのだ。

さて一之輔師の千早ふる、もう5回目になる。ようやく隠居がウソ話を始めるところである。
一之輔師の隠居は、「竜田川」について、いったん「サッカー選手」だと言い、そして相撲取りだと言い直している。
ひょっとすると、一度本当に「ググレカス」のマクラで出したチリのゴールキーパーに引きずられ、言い間違えたんだじゃないかと。
仮に、本当に言い間違えたのだとしても、八っつぁんが「なんで言い直したんですか」とツッコむことで、ちゃんとしたギャグになっている。
今回に関しては間違えたわけではないだろうけど、かつて本当に言い間違ったがネタとして成立したので、そのまま残しているんじゃないかなんて想像したりして。
こんなことは落語にはよくある。
先代橘家文蔵が、不動坊の稽古を先代小さんに付けてもらった際に、「嫁入りするとはうらやましい」と言い間違い、そのままクスグリとして残したというエピソードがある。今ではみんな入れる。
一之輔師もこの、先代正蔵一門に連なる人。それはこの際あまり関係ないけど。

当代の文蔵師は千早ふるで、「女を断った」というフレーズを八っつぁんに「女でたったの」とボケさせている。
同じことを一之輔師、大家の口を借りて言う。一之輔師の千早ふるの場合、ボケるのはあくまでも大家じゃなきゃいけないのだ。
文蔵師と異なり、キャラ的に笑いが起こらない。下ネタ得意の一之輔師なのだが、露骨な下ネタは似合わないようだ。
だがそう思うのもつかの間、八っつぁんのツッコミが炸裂するのだ。「まだ6時だぜ」。
ここで爆笑が起こる。つくづく上手いよなあ。
ウケないことをギャグにするという、白鳥師がよくやるワザとはまた違うのだ。ウケない時の第二段を、あらかじめちゃんと用意してあるという。

吉原に連れていかれる竜田川。隠居が吉原の描写を適当にしていると、八っつぁんが噺のフレームを抜け出してツッコんでくる。
これ千早ふるでしょと。
この落語はね、吉原の描写とか、ちゃんとやんなきゃいけないんですよと隠居をたしなめる八っつぁん。柳家の人とか。
隠居も噺のフレームを抜け出して応戦する。「俺は春風亭だー」。
依然、何を言われても後に引かない隠居。
どこを切ってもギャグ。考え抜いたギャグから、語尾のちょっとした変化球まで手段はいろいろ。

それにしても、噺のフレームを壊し、第四の壁を開いてしまう作りは、新作落語では普通のこと。
古典でもやる人がいないわけではないが、ここまでやってしまうのは一之輔師ぐらいか。
談志は、噺を一時停止させてから演者本人が出てくるわけだから、ちょっと違う。
登場人物が演者に替わってセリフを発するとなると、橘家圓蔵ぐらいだろうか?
新作落語においては、喬太郎、白鳥といった人が上手い。
彦いち師は、ドキュメンタリー落語の形でこれをやる。
最近では、古今亭駒治師がこれを積極的に使っている。言ってみたらこのワザ、新作落語が上手いことの証明でもあるのだ。
一之輔師が、同じテクニックを使いながら、落語になんの傷を残さずまた戻ってしまうところをみれば、この千早ふるが新作落語の世界に属するのだという私の主張もご理解いただけるのではなかろうか。

そしてこれ、手塚治虫のマンガにもよく出てきた手法である。
一之輔師も、手塚治虫マンガ大好きらしい。

千早ふる本編はようやく中盤に差し掛かったところだが、この落語が新作に連なるという、言いたかったことは今回でだいたい書き終えてしまった。
でも、もうちょっと続きます

 

不動坊/千両みかん

作成者: でっち定吉

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