落語のブログ、それもコロナのおかげでネタ切れが深刻な当ブログ。
もう更新休止を予告してるし、無理に毎日書かなくてもいいのですが、そんな折、今日は禁じ手を。
禁じ手と言いつつ、たまに使う手なんですが。
「世の中の落語」というタイトルで、落語じゃないことを書くという。
結局、世の中のことを語りたいだけじゃねえか。自分でもそんな気がするが。
世の中の神羅万象を、頼まれていないのに語り出すと、だいたいヤバイことになりますね。
語っているうちに当初の立ち位置がどんどんおかしなところに行ってしまう人はたくさんいる。個別の意見がいちいち他人に響くかどうかは別にして。
なにかが憑依するんでしょうかね。
鉄の意思でもって、政治を一切語らない柳家喬太郎師は実に偉い。師は、語らないことで実はすべてを語っている。
神羅万象、すべてをおちょくるだけおちょくっておいて、決して自己の結論を最後に振りかけない春風亭一之輔師もまた、実に偉い。
こういう人たちを念頭に置いたとき、私も語る内容は吟味しないとなといつも思う。
いっぽうで、コロナ以前からまともな寄席に出られないが、自分の落語会もそうそう開けない、立川流の二軍の噺家にとっては、政治を語りまくることは麻薬みたいなものなんだろう。
言論の自由という名の麻薬が、落語界から廃人を生み出したのだ。
表現者の端くれであろうラサール石井も、立川流の二軍と同じ世界をさまよっている。
あいちトリエンナーレで志らくを批判してた頃はまだまともだった気がしたのだが。
過度の陰謀論から、あちらの世界に行ってしまったようだ。なにかの使命を帯びたのだろうか。
ラサール石井の使命とはなにか。
それは、堀江貴文(愛称では書きたくないものの、検索には引っ掛かりたいのでホリエモン)を都知事にすること。
馬鹿言え? ラサールの一番嫌いなのがホリエだろう? いやいや。
ラサール石井のような人は、自分自身が祭り上げられることは決してない。タレント候補として選挙に出ても、あえなく落選するタイプ。
太平シローとか島田洋七、堀内恒夫。落語界だと桂きん枝(現・小文枝)みたいな人と同じニオイが漂っている。
しかし、他人を祭り上げる、しかも自分自身の意思と反対方向へ人を誘導する才能には長けた人だと思う。
堀江陣営に気の利いた人がいれば、左翼の反発を積極的に利用するんじゃないか。
つまり今後、ラサール石井がホリエの攻撃をすればするほど、無党派層がその意に沿わない動きを見せるであろう。
選挙期間中にツイッターで候補者を上げ下げするのも別段禁じられてないし。
ラサール石井的な、自分たちこそ常識人だと思っている連中が乗っかってくると、本当にこういう結果になってしまいかねない。
われわれ、知事選や市長選のたびに、何度も見てきたことではないか。
吉村・松井の市長知事の入れ替え選挙も、東京から観察していて彼らの圧勝を確信したのは、反対運動のあり方からである。
維新が自民党の別動隊に過ぎないという評価はまったくその通りだと思うけど、彼らのことを否定しようとする道は、すべてドンブリ勘定財政で破綻した古き良き大阪にしかつながっていない。
反対運動を頑張れば頑張るほど、世間の大多数は違う道を行く。
この手の反対運動は、自分の正義を信じるがゆえに上目線で迫るからさらによくない。
私も都民として、堀江は勘弁したい。小池さんで全然いいよ。
でもラサール石井はじめ、自分がまともだと信じている人たちは、決して本気でホリエモン攻撃なんてしたらいけない。
自分のことを常識人だと思っている人ほど、心配して動き出しかねないから危ない。
そもそも、自分の常識に当てはまらないものに危機を覚える感情が、すでに弱さの表れ。
相手は、非常識さにものを言わせてくるのだから。
若者からすると、共産党を含む左翼政党はとても「保守」に映るのだという。
若者は非常に正しい。憲法9条以外に守るものを見いだせない人たちがもっとも保守である。そして、変態的なものにもっとも蹂躙されていくのがこの人たちである。
選挙なんてリアルなもの。優勢が伝えられる人のどちらかに投票しない非リアリストは、常識人とはいえない。
ラサール石井も、若者は堀江に共感を覚えるだろうと書いている。
この、若者に上から迫る視線こそが問題なのだが。
人は共感だけで行動するのではない。人は常識的な、しかし害となる意見に反発して行動することもざらにあるのである。