襲名のプレッシャー(中)

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名前を継ぐにあたり、代数は多いほうがプレッシャーが掛かるはず。○代目の○の数字が大きいということ。
歌舞伎と違い、落語の場合はまだそれほど代数は多くない。
十一代目というのが現在最多の代数のはず。
金原亭馬生、桂文治がともに十一代目。まあ、途中どさくさに紛れて数が増えていってしまったということはあるようだが、そうだとしてもここまで名前が続くと大変。

金原亭馬生は、先代(十代目)が有名。
志ん生の長男。池波志乃の父といえば、落語を知らない人にもようやく伝わる。
志ん生もようやく売れたころは馬生だったが、七代目。長男が継ぐまでに、二人がこの間に入っているのが不思議。
馬生のほうが志ん生より、もともとは大きい名前である。
没後空位だった馬生を、誰か継げと志ん朝に強く言われたが、たくさんいる弟子の上のほうは誰も継ごうとしなかったという。
師匠に心酔していた弟子が多いようなのに不思議だが、もともと一門揃って欲がないのは本当らしい。
とにかく、師匠没後17年空位だった名前を、ご本人も中継ぎのつもりで気負わず継いだようだ(1999年)。だがここに来て馬生一門、72歳の師匠の下で、いい噺家が次々揃ってきたのは名前の効果なのか。
当代がいるうちに十二代目を推測するのは失礼なのだが、この名の場合は許されるだろう。弟子の小駒さんが継ぐと思う。
現在二ツ目の金原亭小駒さんは、先代馬生の実の孫である。師匠から一族に名前が返ってくるのは不自然ではない。

桂文治の当代は、先代に劣らず実力・人気とも十分である。これもなかなかすごいこと。
先代は死ぬまで芸術協会会長の地位にあった。西武池袋線の車内では女子高生に、「出会うと幸せになる」ラッキーおじさんとして親しまれていた。
先代が亡くなったのが2004年。当代が襲名したのが2011年。
さらに先代、九代目(留さんの文治)も割と最近の人。1978年に没している。まだCDが手に入る。
九代目文治の弟子だったのが、笑点メンバーでもあった桂才賀師。師匠没後志ん朝門下に移籍して、真打時に亭号を桂にした。
だから古今亭の中で、この一門だけ桂。
九代目文治は落語協会だが、十代目から芸術協会に移った。

次いで多い、十代目を数えるのが、柳家小三治。
三笑亭可楽が九代目。初代は噺家の始祖のような人。
林家正蔵、雷門助六、春風亭小柳枝も九代目。
亡くなった入船亭扇橋も九代目。
今度復活する春風亭柳枝も九代目。60年空いた割には代数の多い名前だ。

桂文楽も九代目。当代はペヤングの師匠(小益)。だが、黒門町の師匠が本来六代目なのに末広がりの八代目になってしまった。
先代があまりにも偉大なので、当代の師匠はずっと片身が狭いようだ。
だが文楽という名前自体は、それほど大きなわけではない。先代の師匠であり弟子の名である柳亭左楽のほうがずっと大きいらしい。でも、師匠左楽にとっても思い入れの大きな名前だった。
ペヤングの師匠は先代の弟子だが、師匠没後襲名まで実に21年を要している。いかに、名前を継ぐ候補がいなかったかということなのだろう。
間が空いているうちに、どんどん名前がでかくなってしまったという例だ。必ずしも、間が空けばプレッシャーが小さくなるというものではないようだ。
当代文楽師には弟子がいない(預かりのひな太郎師を除く)から、今後直系で継ぐことはできない。
文楽どころか、落語協会に「桂」の人自体もう少ない。いても多くは別系統であるし。

ちなみに先代文楽絡みで、Wikipediaだけでなくどこにでも書いてあるエピソード。
上方落語を東京で掛けていた先代桂小南が、「右女助」が欲しくて文楽に願ったところ、見込まれて小南をもらったという。
右女助より小南のほうがでかかったので喜んだというのだけど、なんだかよくわからない。
小南は、このとき初代しかなかった名前。文楽の最初の師匠だというのだけど、なんで文楽が名前を持っているのかもよくわからない。
初代小南は戦前の東京で大変な人気者だったらしい。そうだとして、初代だけしかなかった名前が、でかいはずないだろうと思うのだけど?
小南がもらいにいった「右女助」もよくわからない。こちらも当時、初代しかいなかった名前だ。しかも三遊亭右女助だし。

現在の小南は三代目。二代目の弟子。紙切りの先代林家正楽の長男である。
上方ネタは多くやるが、上方落語ではない。
襲名は2017年で、先代没後21年振りであった。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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