準備編
昨日で、365日ブログ連続更新となりました。
それを記念(?)して、たまには実用的なネタでも書いてみましょう。
落語には「こう聴かなきゃダメ」はありません。ですが、「こう聴くと楽しいよ」というのはあります。
「落語を聴いてみたい」という人は多いようだ。
興味がある時点で、すぐ好きになれると思う。「笑点」が好きな人も、落語の世界に入ってくればいいじゃないか。
そんなに高いハードルはない。「古典芸能」だなんて構えることも全然ない。
落語の演目など、覚えておくとより楽しいという情報はたくさんある。だが「これを知っていないと落語は聴けない」という情報など、ほとんどない。
まずは、TV・ラジオで落語を聴いてからがいいと思う。
実は、TVの全国放送における落語番組は大変多い。
NHK「日本の話芸」「演芸図鑑」、BS-TBS「落語研究会」、BS11「柳家喬太郎のイレブン寄席」。
BSトゥエルビで「ミッドナイト寄席」なんてのも放送されている。
関東圏の人なら、千葉テレビ・TVKの「浅草お茶の間寄席」。
TVでまず複数の落語を聴いてみて、落語という芸についてまったくピンとこなかった人は、その先に進むべきではない。
「TVで落語を聴いてもつまらなかったが、寄席に行ってみたら面白かった」などということが、絶対にないとは言わない。でも、たぶん時間のムダだと思う。
つまらない落語も中にはある。収録後選別できるはずのTVで、つまらない落語が掛かるのは謎だ。
だが、つまらない落語にも効能はある。
なぜつまらないのかを自分で考えてみることは大事だ。実のところ、つまらない落語のつまらない理由は、ほとんど理屈で解析できるものだ。
本当はつまらないのではなくて、今の自分に合わないだけ、という場合もある。だから、拒否反応が生じても、後日好きになれることもある。
あまり早いうちから好き嫌いを決めつけないほうがいいが、合わない場合でも、なぜ自分に合わないかは考えたほうがいい。それは、好きな落語がなぜ好きなのかを理解することにつながる。
落語のスタイルにもいろいろあるが、将来どんなスタイルの落語が好きになるかもわかったものではない。範囲をあまり狭めないほうがいい。
「新作落語が嫌い」とか「人情噺が嫌い」「漫談が嫌い」などという人もいる。好き嫌いができるのは仕方ないけれども、落語をいちいち切り分けないほうがいい。
「昔の話のほうがいい」とか、「泣くより笑うほうがいい」「ちゃんとした噺を聴きたい」なんていうのが切り分けである。
そんなところで区別をすることに、デメリットこそあれ意味はない。もったいない切り分けはしないほうがいい。
「江戸落語」「上方落語」も同様で、特に区別する必要はないし、「どうも上方落語は合わない」なんてこともいちいち思うべきではない。東西の違いなど、いうほどのものではない。面白さは結局演者次第なんだから。
座布団に座って噺をすればみんな落語。私なんか、寄席で掛かる講談も落語の一種だとみなしている。
TVの落語
落語を聴くにあたり、「ライブこそが本物で、TVの落語は偽物」だというような論調も強い。堀井憲一郎氏もそう言う。
CDなら想像力を喚起させてくれていいが、TVやDVDはライブの再現性が高いと、聴く側が勘違いしてしまうだけによくないと。
だが、再現性に期待などしないで聴くなら、TVの落語はとても楽しい。
TVでもって、ある程度耳を慣らしておかないと、いきなりの寄席では疲れてしまうだけかもしれない。落語という芸のスタイルにある程度慣れておくのに、TV・ラジオの落語は大変お勧めだ。
昔の名人のCDを聴くのもいい趣味だし別に反対はしないけど、昔の音源ばかり聴いているのもちょっといただけない。
こんな人は、「昔の噺家のほうがいい」なんてことを言って悦に入ったりする。
なに、50年後において、昭和の落語と現代の落語との評価に差が出るとは思えない。名人は昔にもいたし、今にもいる、というのが正解だと思う。中途半端に昔だと、評価にいろんなバイアスが掛かっているのだ。
なら、現代から聴くのが自然というものである。
芸術鑑賞だと思って難しく視ることはない。そんな難しい見方をしていたらその先楽しめないだろう。くつろいで聴きたい。
ああ、上下(かみしも)を振って人物を演じ分けるんだなとか、マクラを振って、羽織を脱いでから本編に入るんだなとか、そういうことも、別に落語のいちばん大事な特徴というわけでもない。
「噺家さんは下手(左手)から出てくるんだな」なんて、存在しないルールをくれぐれも勝手に見つけ出さないように。単に楽屋のある方向から出てくるというだけです。
いちばん大事なのは、噺家さんの喋りを聴いて、情景を想像できるかどうか。
これができない人は、たぶん落語を好きになりたいなんて思わないほうがいい。
落語の知識がちょっとだけある程度の初心者が陥りがちなワナがある。
聴いた落語が面白かったりつまらなかったりしたときに、その原因が「演目」にあると思い込んでしまうこと。
「時そば」とか「目黒のさんま」などという、落語のタイトルが「演目」。
同じ古典落語の演目でも、演者によってまったく味わいは違うものである。面白くなるのもその逆も、演目の力ではなく演者の力のほうが大きい。
例えば「汲みたて」なんて珍しい噺を聴いて面白かったら、「汲みたてって結構面白いんだな」と思ってしまう。これは決して不思議な感想ではない。
でも本当は、「五街道雲助師匠の『汲みたて』は面白い」というように、演者と演題がセットになって、はじめて面白さを評すことができるものなのである。これ、結構大事です。
私にだって好きな演目も、その逆もあるけれど、演目にとらわれすぎるといけない。
だいたい、寄席では通常「ネタ出し」はしないから、どんな噺が掛かるか事前にはわからない。みな、演者の好き嫌いで選んで聴きにいくのである。
演目にこだわりすぎると、あとで修正できなくなる。早いうちにそのような聴き方は止めましょう。
一生、CD派の落語ファンとして生きていくなら別にいいのだけど。
寄席に行かず、CD派になるのもそれはそれでいい。寄席のない地方であれば、日夜落語のCDを聴いて安眠する生活も悪くはない。
ただ、「21世紀の落語入門」というトンデモ落語本を出した人のような、寄席の否定をするCDファンにはならないでいただきたい。
演目にこだわりすぎるのはよくないが、聴いた落語の演目を調べるのは決して悪いことではない。
ただ、落語事典などを熟読するよりもっといいのは、同じ演目を異なる演者で続けて聴くこと。
あらすじを覚えたところで大して役には立たない。それより、自分自身のイメージでいいので、この噺はこういうもの、と肚に収めてしまいたい。
同じ落語を続けて聴いたりして、果たして楽しいのかと疑問に思うかもしれないが、これが面白い。お勧めします。You Tubeも活用しましょう。
「演目」でなくて、「演者」に焦点を当てる聴き方ができていれば、続けて同じ噺を聴いて退屈することなど、まずない。
退屈するとしたら、おはなしのストーリーを追う聴き方しかできていないからだ。
続けて同じ噺を聴くと、演者ごとの「演出の違い」が強調されるので、落語を立体的に理解できるようになる。噺の肝がどこにあるのか理解が深まり、結果的に演目がよくわかるようになる。
噺家自身が「落語を作る」ことの大事さもわかってくる。新作だけでなく、先人から脈々と受け継がれてきた古典落語でもまったくそうなのである。噺を作れない人の落語はつまらない。
単にアレンジが入っていればよし、ということではない。
ちなみに、噺の肝は、だいたいの場合サゲ(オチ)にはない。サゲなんて、聴いた端から忘れてしまって構わないものが多い。これは、落語を「落とし噺」だと思っている人には意外かもしれない。
ただ、サゲの基本を知っておくことは無意味ではない。サゲのアレンジがあれば、そのアレンジに着目できる。
同じ噺を、様々な演者で聴く訓練をしていれば、寄席に行ってから知っている演目が出たとき実に楽しく、嬉しい。
どう料理してくれるのか、先が楽しみになる。
落語なんて楽しみに過ぎないのでどう聴いたって構わないが、こうやって耳を鍛えておくことをしていないと、寄席で「ああ、またこの噺がかかったよ」と嘆く羽目になる気がする。
といっても、私もさすがに「元犬」「真田小僧」あたりが出てくると、よほど期待する噺家さんでない限り「またかよ」と思わないでもないけど。
「時そば」くらいなら、これもまたよく聴くのではあるが、なかなかバリエーションが多くて楽しめるものである。
TVの落語はいいものだが、欠点をひとつ思い出した。
TVに慣れていると、高座と客席とは一方通行だと勘違いしてしまう人もいる。
だから、高座への配慮がまるでない。やたら出入りしたり、オチを先に言ってしまったり、携帯鳴らしたり。あろうことか本を読み続けていたり。
実際には、高座から客席は丸見えである。池袋なんか、照明が明るいから隅々までよく見える。
お茶の間と異なり、「演者から見られている」という意識は常に持ったほうがいい。
寄席編
落語の耳がある程度できたら寄席に行ってみる、ということにしましょう。ここからはすみませんが、東京近郊の人が対象になる。
基本は大阪も一緒のはずだが。
寄席でなくて、チケット買って全国でやっているホール落語に行くのでも、別に構わない。
ただ、私が落語を聴くのはほとんどが寄席である。「東京の寄席の魅力」を語りたい。
桃月庵白酒師などよくマクラでネタにしている。「落語会は、何日も前からチケットを買っていたお客様に、『もうしばらく落語はいいや』というくらいの満足を与えなきゃいけない。これが寄席では、『面白かった?』『うーん・・・明日も来ようか』くらいの満足でいい」なんてことを。
ネタではあるが、これは結構そのとおりである。
実際のところ、何日も前から楽しみにして寄席に行くこともあるのだけど、それでもどこか日常感漂うのが寄席の世界なのだ。といって、ホール落語に比べて満足度が低いということではない。
噺家さんにとっても、寄席はホームグラウンドであり、日常である。
聴き手にとっては初めての空間だとしても、気楽な日常を味わいにいくつもりでいい。
広瀬和生氏は、初心者に向けて「とにかく寄席に行ってみよう」というお勧めは無責任だと、他の評論家を非難している。
世の中には、つまらない寄席も存在しているのであり、その事実を無視して「とにかく寄席」はないのだと。
でも、TVである程度落語を聴いて楽しめたという人なら、番組を選ばずに適当に寄席に行くというのもアリだと私は思う。
最初の寄席では、どうせなにがなんだかわかるまい。体験で終わると思う。であれば、「寄席」というシステム経験を主目的に、適当に行ってみるのは悪くない。
つまらなかったのなら、TVで聴いた落語と同じく、「なぜつまらないと思ったのか」を考えてみればいいじゃないか。
そもそも初心者であるうちは、演者について上手いか下手かもわかりにくいものである。
上手い落語を知るためには、下手な落語を聴く経験もあっていい。
ちなみに寄席、どなたかのお誘いを待っていないでひとりでまず行ってみることをお勧めします。
落語というもの、隣の席の人と面白さを共有できることももちろんあるけど、その楽しみは意外なくらいにパーソナルなものです。
自分自身の脳に浮かんだ映像と感動は、どこまで行っても個人固有のもの。これは他人と完全には共有できない。
堂々とひとりで行って楽しんでみてはいかがでしょう。女性もぜひ。
最初の寄席は、知っている人が出ているときに行きたいという人もいるだろう。だが、そういう人はだいたい「笑点」メンバーを目当てにすることになってしまう。
気持ちはわかるが、これはあまりお勧めしない。
「笑点メンバーは落語は下手だ。本当に上手い人は寄席にたくさんいる」なんてことを言うファンもいるが、私がお勧めしないのはそれが理由ではない。
笑点メンバーが出るような席は、「落語の日常感」が漂わなくなり、どうしても笑点感が強く出てしまう。それに、妙に混んだりするし。
落語を聴きにいこうと思うなら、いったん「笑点」と切り離された世界に入ってみることをお勧めする。
まあ、笑点を目の敵にするような尖ったファンになれというつもりはありませんが。
噺家を選ばず適当に寄席に行くことのデメリットは、つまらない落語に遭遇する危険性より、むしろ「慣れていないうちに、大して上手くもない噺家さんの贔屓になってしまう悲劇」のほうにあるかもしれない。
これは堀井憲一郎氏が書いている。私にも経験がある。
まあ、いきなり追っかけにまでなってしまわない限りは、それほどの悲劇ではないと思いますよ。「あの師匠、実はたいして上手くなかったんだなあ」と後で気づくくらい。
鈴本演芸場へ
番組を選ばず適当に行くのは、寄席という環境を経験するためには決して悪くない。だが、ハコは選んでもいいと思う。
都内の寄席の最高峰、上野の「鈴本演芸場」がまずは無難である。
ここは、層の厚い「落語協会」の精鋭しか出ない。三平とか、下手な噺家は呼ばれない。まあ、下手が皆無だと断定するのははばかられるが、地雷が埋まっていることは、まずない。
鈴本だったら、いきなり行ってみて外すことはそうそうないはず。演者ひとりの持ち時間も、短すぎず長すぎず、初心者にもちょうどいい。
ここは、昼の部夜の部入れ替え制だが、それもむしろいいと思う。
落語というもの、慣れていないと結構疲れるのである。決められた時間で終わる寄席のほうがお勧め。
初心者にも優しく、いっぽうで時代の最先端を行くアヴァンギャルドな企画ものもやるのが鈴本という寄席でもある。
ただし、正月・GWは前売指定席になるので注意。なにも、そんなハイシーズンに寄席デビューしなくてもいいと思う。
寄席の開演時間は席ごとに決まっている。お勧めしている鈴本演芸場の場合、基本的には昼の部12時半、夜の部5時半。
ただし、15分前には前座が出る。前座を聴きたいかどうかは別にして、席を確保するためには30分くらい前に行っておくのが無難。
まあ、混雑度は主任の師匠次第なのでいつも混んでいるわけではない。途中から入っても全然いいけども、団体さんが入るなど不測の事態は常にある。土日は特に早いほうがいい。
近年はどこの寄席も昼席のほうが混んでいる。
鈴本は、飲み食いしてもいい寄席である。客席にテーブルも付いてる。
アルコールはビールだけ中で売ってるが、持ち込んでも別にいい。
全ての寄席で飲食自由だというわけではない。私がホームグラウンドにしている池袋演芸場など、アルコール禁止。新宿もそう。
食べ物は、豪華お弁当なんていうのは向かない。食べやすいカツサンドなんかをお勧めします。
鈴本は通称「上野」という。確かに上野にあるのだが、JRだと御徒町のほうが近い。地下鉄だと上野広小路(上野御徒町)。
御徒町からまっすぐ春日通りを歩いていくと、中央通りと交差する上野広小路交差点の左奥に落語の小屋が見える。これは間違いやすいが上野広小路亭である。鈴本はもっと上野寄り。
1階が「すしざんまい」である。これは鈴本演芸場の店子。
開演前は、中央通り沿いに列ができている。ごく普通の噺家さんが主任であれば、少々並んでいたからといって焦らなくてよい。キャパは十分ある。
日曜日は昼席の前に「早朝寄席」をやっており、500円で4席楽しめる。二ツ目さんの出る早朝寄席も楽しいが、居続けることはできないので、一度外に出る必要がある。
普通の席では、大人2,800円。雑誌「東京かわら版」があれば300円引きになる。
あとは、主任の噺家さんのWebサイト等で、割引券が掲示されてる場合もある。
正月やGWを除き、チケットは当日購入である。すべて自由席。テケツ(チケット売り場)は1階入口付近。
エスカレーターで3階まで上がると客席がある。
席はお好きなところを。鈴本は奥が広いので、多少前寄りのほうがいいと思う。
あんまり前にいると、マジックなどの色物さんにいじられる。それが嫌な人は、四列目程度がいい。
ただし、紙切りにリクエストするときには、前のほうや通路側がもらいやすい。
寄席の作法はそんなにうるさいわけではない。常識にのっとってもらえば十分。常識のない人がいるから困るのだ。
携帯は、音量・バイブ音をゼロにするような器用なことができないなら、必ず電源を切っておくこと。
電源の切り方がわからないなら、覚えてから行くこと。寄席には通信妨害電波は掛かっていない。鳴るときは鳴るのだ。電話だもん。
携帯が鳴ってから対処を考えようなんて人は、寄席に出かけてはいけない。
隣とおしゃべりするのは論外。おばちゃんに多いが。
あと、大いに笑ってもらっていいが、不自然な、作為的な笑いはやめてください。
疲れたら寝てもいいが、いびきは厳禁。人に迷惑を掛けそうならロビーに出ましょう。
寄席というところ、自然なたたずまいで座っていればなにも問題ないのだが、不自然なものが入るととたんに落語は壊れてしまう。
不自然なものとは、携帯や大笑い、いびきなどである。あと酔っ払いの声掛け。
開演前に席を確保したら、トイレは済ませておきましょう。トイレは上の4階。売店は下の2階。
出囃子が鳴ると、開口一番、前座さんが出てくる。
本式だと、演者が袖から出てきたときには手を叩かず、座布団に座って頭を下げてから初めて手を叩く。まあ、厳密にやらなくたっていいです。いきなり拍手しても構わない。
たまに、そこそこ空いてて通の多い席で、このような本式の拍手になることがある。噺家さん出てきて「あ、拍手ないのかと思ってびっくりした」と言っている人がいたから、この本式が日常というわけでもない。
前座はプログラムには名前がない。これはどこでも、ホール落語でもそう。これは料金の外である。
前座さんの出演は予定に基づくものではないらしい。楽屋の都合でいきなり上がる。これは初高座の場合でもそうらしい。
前座さんが掛けるのは、「子ほめ」「牛ほめ」「たらちね」「元犬」「たぬき」など、みんな知ってる前座噺が多い。
あくまでも修業のためにお客の前で一席やるのであり、別に客へのサービスではない。
前座とは、生まれて初めて寄席に行った人が最初に生で聴く、この世でもっとも下手な落語である。こう言ったのは昇太師匠だったか? うまいことをいう。
だから、あんまり真剣に聴かなくても別にどうということはない。
「一生懸命笑ってあげよう」などと思う人も優しい人ももちろんいるだろうが、先は長い。前座から一生懸命聴いてると、疲れます。
中には、オヤこれは、と思う達者な前座もいるが、まあ、数は少ない。落語というのは、お笑いと違って年数が必要な芸であることがよくわかる。
たまたま見かけた前座さんがもし気になったら、名前はメモしておかないと後で調べられなくなる。
演題も、寄席の場合は後で張り出されるわけでもないので、メモしておかないとわからなくなる。知らない噺ならなおさら。
ただ、メモ取るなら演者の入れ替わり時にするくらいの配慮は欲しい。演者の立場からは、噺の最中、目の前で露骨にメモを取られるのはとても嫌なものらしい。たまに、そのことについて高座から苦言を発する噺家さんもいる。
でも、これを平気でやる野暮な常連もいる。
いちばん野暮なのは、「ネタ帳ドレミファドン」と私は呼んでいるのだけど、ネタが分かった瞬間にこれ見よがしにメモするというやつ。
本編に入る前の、噺に付随するマクラでもって当てたりすると、さらにこれ見よがしにわかったことをアピールする。野暮の極み。
ちなみに、私は一切メモを取らない。そもそも筆記用具を持参して行かない。
このブログ、寄席に行った後でいろいろ書き記しているが、覚えておいたことと、後で調べたことしか書いていない。忘れたらもう、仕方ない。覚えておくほどの内容じゃなかったのだ。
いけないのは、メモを取ることそのものではない。これみよがしの野暮なふるまいを、わざわざ高座の演者に見せつけることである。
繰り返すが、高座の演者からは、客がなにをしてるか丸見えである。
一席終えた前座さんが自分で座布団をひっくり返し、演者の名前が出ている「めくり」を替えて退場する。
めくりの演者名は寄席文字で書いてある。寄席文字の特徴は、「空白の部分をできる限り作らないこと」。客席に隙間が出ないよう縁起を担いでいるのである。
次に出てくるのが二ツ目さん。つまり前座修業を終えた人。ここからプログラムに名前が載っている。
だいたい、主任の噺家さんの一門の人が出る。弟子であったり弟弟子、あるいは兄弟弟子の弟子だったり
二ツ目になると羽織を着ていて、噺家らしい格好。マクラもちゃんと降る。出囃子も自分のもの。
二ツ目で上手い人はたくさんいるが、寄席では二ツ目さんの出番はごく限られている。一日ひとり、それもその一枠に交代で出てくる。
気に入った二ツ目を見つけても、寄席でまた逢えることはなかなかない。
こういう部分が、落語界全体における寄席の限界でもある。寄席は噺家さんのホームグラウンドであり、非常にスタンダードな落語の楽しみ方ではあるものの、落語のすべてが寄席にあるわけではない。
そういうこともあるので、落語の好きな人と、寄席の好きな人とはイコールというわけでもない。
別に、寄席を極めずに、ホール落語に行ってもいいと思いますよ。そこからまた寄席に帰ってくる人もいる。
ちなみに私も、二ツ目さんの落語は、寄席ではない場所で聴く。最近、二ツ目専用の神田連雀亭によく行くようになった。
その次は、私の通う池袋の、それも落語協会の席だとだいたい真打の噺家さんが出るのだけど、ごく一般的には色物さんのポジションで、鈴本もそう。
落語以外の芸が出てきて彩を添えるのが寄席の特徴である。ホール落語でも色物ゲストが出ないわけではないが、少ない。
寄席に欠かせない色物さんの役目は、客の頭をリセットさせて疲れを取ることである。客の落語に向いていた耳をほぐしてくれる。
そういう目的なのだから、色物さんはリラックスして観ましょう。
寄席に通う人は、色物さんもだいたい好んでいるはず。というか、自然と好きになる。
私も、漫才聴きに浅草の東洋館に行こうとまでは思わないのだけど、寄席で掛けられる漫才は大好き。
漫才だけではなく、「紙切り」「漫談」「コント」「奇術」「太神楽」「俗曲」「ものまね」「ジャグリング」などなど。他に分類できないパフォーマンスも登場する。
「講談」は色物とは言わないのが普通。
色物さんも、寄席に出るために落語協会か芸術協会に所属している。
落語協会の有名な色物さんというと、現在は「ロケット団」であろうか。他にも、「すず風 にゃん子・金魚」「ホンキートンク」「笑組」「ホームラン」など楽しい漫才が登場する。
奇術は、まじめにやることはない。ほぼすべて、おとぼけマジックである。実に気楽でいい。
真面目なのは太神楽(だいかぐら)で、多少笑いも入れるが、見事な曲芸を魅せるパフォーマンス。これなど非常に寄席らしい芸で、始めて行った寄席で観られると、とても嬉しいのではないか。
落語協会は漫談は少ない。三味線漫談をやる人に、三遊亭小圓歌、林家あずみといったお姉さん方がいるが、噺家の弟子なのでどちらかというと落語の世界に近い。
芸術協会の寄席に行くと、ウクレレ漫談の「ぴろき」先生をはじめ、結構いる。あ、色物さんは「先生」と呼ぶことになっている。別に一般人が先生と呼ばなくてもいいけど。
次から、いよいよ真打の噺家の出番。
「真打」というと立派そうだが、噺家の大多数は真打である。
年功序列でみな真打になれるのであり、死ぬまで真打。肩書に騙されてはいけない。
といっても、鈴本に下手な真打はそんなに出られない。精鋭が選ばれているのだと思っていただきたい。
ここも、主任の噺家さんの一門のポジションである場合が多い。そもそも、その日の顔付け自体、主任の一門が勢揃いしている場合が多い。
なお、浅い出番だとファンにも軽く見られがちであり、噺家さんにとってもそう感じて、あまり愉快でないことが多いらしい。
だが、席亭としては、番組を作るにあたってムラがないよう工夫をした結果なのである。だから、浅い出番で見事な芸を魅せられることも普通にある。
こんな感じで真打の噺家と、間に色物さんが挟まって進む。
寄席においては、チームプレイが強く求められる。個人でやってる噺家という職業であるが、特に東京はチームプレイの伝統が長い。
静かな寄席であれば、パアッと明るい噺を掛ける。反対に、わんわん沸き返っていたら、ちょっと落ち着いた噺を掛けて客を引き込み、沈静化させる。
色物さんも、噺家が熱演して時間が押していれば、時間調整のためにサラっとやったりする。
寄席は基本的にネタ出しでないので、こういう柔軟な対応が可能なのである。
演目も季節に合わせ、天気に併せて選ぶ。
その日に出たネタはネタ帳に記載されるので、カブることはない。業界用語でいうと「ツ」くことはない。
似た傾向の話も避けるものである。「湯屋番」が出たら若旦那でツいてしまう「船徳」は出ない。ケチの噺、酒の噺などはたくさんあるが、なにか先に出れば避ける。
反対に、主任の師匠の得意な噺とツくネタを避けるということもある。
その他、視覚障害者が来れば按摩の噺はやらない。子供がいれば、廓噺・艶笑噺はやらない。
東京の寄席に通っていると、演者たちの見事なチームプレイが見えるようになってくる。
好きな噺家さんを、「寄席での役割」というものに無頓着で観ると、「今日の○○師匠は、イマイチだった」などという感想になりがちである。
しかし、その実は主任の師匠を立てる見事な芸であったりするのである。
ブログに、寄席に行った経験を書いている人はたくさんいるが、そうした「寄席の流れ」に着目したものはほとんどなくて残念だ。
寄席は団体競技なのである。初心者のうちにこそ、そうした見方を見につけておくとあとが楽しいと思う。
寄席のすべての出番ではないが、重要なポジションには名前がある。
主任がトリ。これはお分かりだろう。
中夜入れ替えなしの寄席でも、昼夜それぞれにトリがいる。
仲入り休憩前の出番は「中トリ」なんていうが、俗用らしい。「正しい用語」が存在しているのか知らないが。
まあ、中トリでもいいけれど、「仲入り前」といえばわかるので、このブログではそのように表現している。
この出番も、そこそこ大きなネタをやることが多い。
上方では、主任の師匠に並んで仲入り前が大きく取り上げられるようだ。
東京では大きく取り上げられはしないが、仲入り前の師匠を勝手に楽しみにするひとはたくさんいるはず。
トリの前が「ヒザ替り」または単にヒザ。これは色物さんの出番。
色物でも、パーッと盛り上げるような漫才は不向きで、静かながら楽しい芸が求められる。ここで、客の頭を空っぽにして、トリに向けてのパワーをためるのである。
ヒザの前は噺家さんのポジションで「ヒザ前」という。ここも、派手に大笑いさせるようなことはしていけないポジション。
寄席に通っていると、このポジションがやたら上手い師匠を見かける。
盛り上げたらいけないからといって、つまらない噺を掛けていいわけではない。この絶妙な違い、今から寄席に行きたい人にもわかってもらいたい。
仲入り休憩後は「クイツキ」という。休憩で気がそれた客を食いつかせる役目で、若手の真打が務めることが多い。
もっとも、鈴本の場合は色物さんが務める。派手な色物さんではない。鈴本は、休憩後も客は疲労していると考えているのか、ソフトランディングを狙っているようである。
噺家さん、よく高座から客に、気楽に楽しんでいってほしいと声がけをしている。
まったくそのとおり。難しく考えすぎるものではない。
ぼんやりと噺を楽しめるのも、聴き上手である証拠。
まあ、あとで落語を難しく考えるのは、それはそれで面白いけど。最初から難しく入るのとは違う。
寄席の番組は、主任の師匠を中心に回っている。それまで出てきた演者が一生懸命作り上げた寄席の雰囲気を、主任はすべて回収してよい。
トリの師匠は、たまたま最後に出てくる人というわけではない。持ち時間がたっぷりあるので、大ネタを掛けるのである。
それまでの演者も、すべてトリの師匠を立てるための芸をしている。だから、自分がトリを取るときになれば同じことをしてもらえるのだ。
寄席というもの、ホール落語に比べると軽いネタが多くはなるが、トリにもなると別。
客もまた、主任の師匠を見て、寄席に行くかどうか判断する。
なのであるが、初めて行く寄席でそこまでこだわることもないと思う。
人気のない若手の師匠を、冒険で主任にすることもある。そんな空いている席も、当人の師匠が仲入り前やヒザ前に出て、しっかりカバーをしてくれる。
それもいいではないか。
それに、どうしようもない師匠は、寄席の最高峰鈴本でそもそもトリなど取らせてもらえない。
トリでは人情噺も出る。
落語を聴いてみたいという段階の人には、「人情噺」というのはコンセプトがわかりにくいのではないだろうか。なぜ落語で泣かせる必要があるのかと。
実際には、「人情噺=泣かせる噺」ではない。人の感情をゆすぶるのが人情噺。しみじみといい噺が多く、笑いどころたっぷりの噺も多い。
まあ、本など読みますと、「人情噺とは、オチのない噺」などと書いてあるかもしれないが、そんな単純なものではない。
主任の師匠が一席終えると、幕を締める。幕が締まり切るまで、主任の師匠は深々と頭を下げ続けるのが普通。
いい内容だったら、たっぷり手を叩きましょう。そして満たされた思いになって家路につきましょう。
まあ、主任がイマイチ、または感性に合わなくてピンとこず、それまでに出た噺家さんのことを思い出しながら帰宅する場合もある。そもそも、客に合わない日だってある。
私が鈴本をお勧めするのはそれも理由。とにかく層が厚いのである。トリ以外の師匠がカバーしてくれる。
寄席の基本
ここでちょっと、都内の寄席の基本をおさらい。
都内には四軒の寄席がある。これらで、年末3日間を除きほぼ毎日落語が聴ける。
- 鈴本演芸場
- 浅草演芸ホール
- 新宿末広亭
- 池袋演芸場
これに、「国立演芸場」を含めると計五軒。国立は特殊な寄席なので、数に含めたり含めなかったり。
特殊な寄席だが、襲名披露、真打披露は国立でもおこなわれる。定席を開催している毎月20日までだと、かろうじて「寄席」らしい。
21日以降はホール落語の会場となり、「国立名人会」「花形演芸会」その他独演会など開催している。
他にも、落語の定席を催している場所に、「お江戸上野広小路亭」「お江戸日本橋亭」「お江戸両国亭」などがある。
これらについては、定席としての姿と、貸席としての姿との両方がある。ハコそのものではなく、開催している中身ごとに語る必要がある。だからか、狭義の「寄席」とはみなさない。
その点、四軒の寄席は、ハコについて語ることがそのまま中身について語ることである。
落語芸術協会においては、上野広小路亭の毎月15日までは寄席の扱いであるが、だからといって同列に扱うわけにもいかない。
寄席の番組は、毎月10日ずつ区切って番組が編成されている。これが「定席」(じょうせき)。
- 上席 1日~10日
- 中席 11日~20日
- 下席 21日~30日
読み方は、「かみせき」「なかせき」「しもせき」。
さらに、それぞれ昼の部と夜の部とがある。国立は通常昼の部だけで、金曜日だけ夜の部を、昼と同一メンバーで追加することが多い。
鈴本は昼夜入れ替え制。池袋の下席もそう。池袋下席は、昼は定席で、夜は落語会となる。
では、31日は?
31日は特別興行「余一会」が多い。よいちかい。これは実質ホール落語で、「寄席」のシステムに基づくものではない。だから、定席に出られない「立川流」や「円楽党」の噺家さんも出る。
31日まで下席をやっていることもたまにある。余一会の企画が埋まらなかったのでしょう。
だが、鈴本に関しては、埋まらない場合は休みにしてしまうことが多いように思う。
定席は、基本的に「落語協会」と「落語芸術協会」(芸協)の会員しか出られない。両協会はそれぞれ交代で出演するが、鈴本は落語協会だけ。
その昔、鈴本と喧嘩して以来芸協は出なくなった。芸協は近所の上野広小路亭に出ている。
浅草と新宿、それと国立は両協会が完全に交代で出てくる。
浅草では、芸協の番組は10日間を5日間ずつ前半・後半に分ける。代演をなるべく少なくしようという対策なのだが、必ずしも成功しているわけではない。
池袋は協会の持ち分が偏っていて、下席が落語協会固定である。上席・中席が二団体交代、なので、池袋の場合3分の2が落語協会の席である。
どの席も、混雑度は、名前の大きく出る主任の噺家次第である。
では、主任の噺家以外はどうでもいいのか、というと決してそうではないところが、やみつきになる寄席の魅力なのである。
芸術協会もメンバーを厳選すれば決して悪くないのだが、競争の原理のあまり働かない、互助的な顔付けになることがよくあるのが難点。
初心者にとっては、落語協会の方がハズレは少ない。落語協会のほうが、噺家の人数は多いのにもかかわらず、下手な人が寄席に出してもらいづらいことは間違いない。
だから鈴本をお勧めしているのである。
国立演芸場の定席(20日まで)も、料金安いし悪くはない。指定席なのも、メリットかもしれない。
だが、ここに顔付けされる噺家は他の寄席四席の余り物である。トリの師匠は必ずしも悪くないし、全般的になかなかいい番組のときもあるが、いっぽうで(落語協会でも)「誰が観にいくのだ」というメンバー編成も見かける。
「寄席のシステムを経験してみたい」という目的を押し出して国立に行くのは全然構わないと思う。だが、経験する「寄席」のシステム自体、少々違うことはご認識おかれたい。
寄席には、「代演」がつきものである。
お目当ての噺家さんを楽しみにして寄席に行くと、別の噺家さんが変わって出てくるのである。特に土日祝。
ほとんどの代演は、予定されたもの。寄席よりも早く、噺家さんの落語会のスケジュールは下手すると二年先まで埋まっている。それを前提で寄席に顔付けされるのである。
噺家さんに文句を言うのは筋違いというもの。
直前には各寄席のサイトに情報が載るが、「東京かわら版」を入念に読み込むと、代演になる日は予想できることが多い。
その日、脇で仕事がある噺家さんは代演の可能性が高い。