「ご隠居さんいますか」
「おや八っつぁんじゃないか、お上がり。しばらく鼻の頭見せなかったな」
「そうすね。なにせたまの小噺のときしか出番がねえもんでね」
「そうか、今日は小噺か。新作落語の執筆は全然進まないけども、とりあえず小噺でお茶を濁そうってことだな」
「そういうことでさあ。それにしても、古典落語のフォーマットを使った小噺って、どうなんすかね、このセンス」
「落語協会の新作落語台本募集だったら、小ゑん師匠に叱られて真っ先に落とされるね。こんな落語、いっぱい来るらしいよ」
「あたしは好きなんすけどね。じゃ、今日はひとつ、はじめに戻って上方バージョンでやりますか。ええー、こんにちは」
「おお、誰かと思たらアホやないか。ってやらせるなよ。上方のフォーマットでもおんなじことだろ」
「ナイスノリツッコミ。ところでわれわれ落語の登場人物に、世界の仕組みを語らせるなんてまた、プロのメタフィクション的新作に憧れた素人が、真似して大ケガしがちな手法ですね」
「わかってるなら本題に入りなよ。ほれ、粗茶だがお上がり」
「今日は隠居に訊きてえことがありましてね」
「ほう、なんだ。首長鳥がつるになった理由か」
「そういうのもいらねえんですよ。俺は古典落語知り尽くしてるぜみたいなアピールも、台本募集で真っ先に落とされます。あと、神さまネタに、幽霊ネタに、地獄」
「ごめんなさい。神さまネタ兼寄席ネタで玉砕しました。気を付けます」
「誰に謝ってるんですか。話戻しますが、蚊って野郎がいますね」
「蚊ってのは、飛ぶ蚊か」
「飛んできて刺しやがる、あの蚊です。あれ、どうして刺されっとかゆいのかなって思ってね。細かく言うと、江戸っ子なんで『かいい』と発音してえところです」
「ほう。かゆみのメカニズムでも訊きにきたのかい。池田模範堂じゃなくてこのあたしに」
「メカニズムはね、知ってまさあ。皮膚中に、タンパク質であるヒスタミンが生成されるからです。これは蚊の唾液に対するアレルギー反応によって生じるもので、かゆみの原因物質です」
「なんか読んでないかいお前さん。そこまで知っててなにをあたしに訊きにきたんだい」
「なんでも知ってる隠居に訊きてえのはですね。なんでわざわざかゆくする必要があったのかってことですよ」
「なんでかってのは、蚊がどうして、かゆい成分をいちいち生成させたりするのかっていうことかい」
「そう。蚊ってのは、メスが栄養を効率的に摂取するために動物の血液を狙うわけでしょ」
「ああ、そういうね。オスは植物の汁なんか吸ってるそうだが、子供を産むメスには栄養が必要なんだね。血液は栄養の塊だからね」
「そうしたら、蚊のほうだって、血をもらう相手にはなるべく嫌われたくねえっすよね。刺されてかゆいから、手で潰されたり、線香焚かれたりするわけでしょ」
「そうだね、蚊帳吊られたりね」
「どうして蚊のやつら、かゆくないようにしないんですかね」
「お前さんなかなか鋭いね。つまり進化の話じゃないか。かゆい蚊と、かゆくない蚊とではかゆくないほうが生存競争に有利だから、あるときそうした性質を獲得した蚊が、子孫を増やして多数派になっていくはずだと、こういうことだな」
「そういうことですかね。進化かどうかはわかんねえけどね、蚊の野郎も、もうちょっと努力したほうがいいんじゃねえすか」
「努力とは恐れ入った。でもまあ、わかるぞ。かゆくない蚊なら、嫌われなくて済むからな。なのにどうしてかゆくするのか、うん、これはなかなか難問だな」
「キリンだって、高いところにある餌が食いたい食いたいって気張ったら首が伸びたんでしょ」
「ろくろ首みたいには伸びないよ。首の長い遺伝子を持ったキリンが、生存競争に打ち勝って有利な形質を子孫に伝えたってことだね」
「馬だって、飼い葉桶が長くて餌に口が届かねえから、顔が伸びねえかって気張ったんだね」
「それは三人旅のクスグリだな。そうかこのギャグ、進化論について語ってたんだな」
「ゾウだって、リンゴもらうときに道具があったらいいなって」
「リンゴで鼻は伸びないと思うがな。でもまあ、例はわかった。そうだな、なぜ蚊はかゆいままなのか、わかってきたぞ」
「ほう、さすがは隠居だ、ムダに年食ってねえや」
「ご挨拶だね。かゆくないと、キンチョールやキンカンの商売が上がったりだからってのはどうだ」
「飼葉桶のネタと変わんねえじゃねえですか」
「まあ、クスグリもちょっと入れとかないとな。真面目に答えてみると、蚊のほうも手をこまねいているわけじゃないと見たな」
「そうなんですか?」
「かゆくないようにする方法論はある。最初に注入する蚊の唾液がいけないんだから、これを必要最小限の量にしておいて、最後に大きく吸い込むとか」
「なるほど。そいつはありそうだ。やっぱり努力してんだね、蚊も」
「だがな、蚊の進化を妨げる相手がいるんだ。誰だと思う」
「そうでんな、おまはんでっしゃろ」
「なんで上方弁なんだよ。正解はあたしら人間さ」
「ほう・・・あたしらが、蚊がかゆいままでいて欲しいってことですか?」
「そのとおり」
「うーん、でも、蚊と人間とが、一緒にかゆくないほうに向かって努力すればいいんじゃ? まさにWin-Winの関係」
「そうじゃないんだよ。蚊はマラリアとかデング熱とか、疫病を媒介するだろう」
「あ、なるほど。つまり人間も、刺されっぱなしだといのちの危機が多いわけですね」
「そう。刺されて病気にならないように、蚊はやっぱり生活から排除しなきゃいけない。そのために、サインとしてのかゆみを出すよう、人間が進化してるんだろう」
「なるほど、かゆいのは人間の都合で、蚊の努力不足じゃないと。ただの小噺だと思ってたら、なんだか結構深いところで結論が出たじゃないですか、隠居」
「そうだよ。落語っていうのは、ちょっとした教養を盛り込むと面白いものなんだな。まあ、正解かどうかは知らないがね」
「確かにためになりましたよ。ところで小噺なのにサゲがねえですね」
「人情噺だからサゲはなし。かゆさをこらえながらサインを出す、人間のDNAに刻み込まれた、100万年の壮大な進化のドラマが思わず涙をそそるね」
「そういう噺だったですかね。まあいいや、隠居にいい話を聴いたから、サゲはあっしが考えます。なぞかけでもいいですか」
「なぞかけ落ちってのは聴いたことがないけどな。まかせたぞ、八っつぁん」
「えー、蚊と掛けまして、人類の祖先と説きます」
「蚊と掛けまして、人類の祖先と説く。進化論が入ってていいや。その心は」
「どちらも、『き』の上にいます」