夏は身投げの季節。そうかな。
いつも落語のフレーズを考えている私の脳裏を、特に脈絡なく「ドカンボコン」がよぎった。
ドカンボコンは落語世界のフレーズ。一般社会ではまったく使わないことば。
「ドカン」が入水時の音、「ボコン」が沈んでいくさま、であろう。
ドカンボコンを検索しても、「デコンボコンで検索しています」という結果が出る。
松竹芸能の芸人よりも知名度が低い、残念なフレーズ。
しかしこの記事でもって、アップの3日後ぐらいに「ドカンボコン」の検索トップを狙います。
ドカンボコンは、身投げを表す。橋の上から大川に飛び込めば、それでおしまい。
江戸の落語では自殺というと、身投げがメジャーである。
不思議なことに、上方落語では身投げはあまり登場しない。「辻占茶屋」(東京では「辰巳の辻占」)は貴重な例だと思う。
野崎詣りなどに「板子一枚下は地獄」というフレーズは頻出しているので、水への怖さはもちろん共通している。
他に身投げが出てくるのは「饅頭こわい」ぐらいか。
上方では死ぬにしても首をくくるイメージがある。「算段の平兵衛」「ふたなり」「夢八」など。
東京では、鼠穴に唐茄子屋政談(貧乏長屋のかみさん)がこれ。
東西問わず、本当に死んでしまう噺が少ないのは落語らしい。
身投げの場合も、だいたい本当には死なない。
ついでに書いておくと、桂枝雀も先代桂三木助も、首吊り。落語の登場人物は助かるが、演者のほうは本当に亡くなってしまった。
まったくの想像だが、東京で身投げの噺が多いのは、身投げしやすいシチュエーションが整っていたからでは?
文化の違いが自殺のバラエティを生むのではなくて、環境の問題なのではないかと。
吾妻橋は身投げのメッカ。ここが真に飛び込みやすかったかどうかまではわからないのだが、川の広さはものを言うだろう。
江戸時代は川流れの死体は構わず、流してよいことになっていた。身投げのほうが、あとくされのない死に方だったというのはあるはず。
人を殺す際だって、川に放り込めば一丁上がり。それも怖い。
実際には心中のやりそこないで、さらし者にされたカップルも多かった事実もあるが。身投げのやりそこないもあったわけで。
ドカンボコンはどんな噺に出てくるか。
「刀屋」「辰巳の辻占」「星野屋」など。
唐茄子屋政談は、身投げしようとしておじさんに救われるので、ドカンボコンは出てこない。
佃祭も同様。
ドカンボコンは、身投げについて、事前の段階で用いられるフレーズなのだ。
深刻な自死というものを、茶化しているイメージ。そして、話し相手がいる。
そんなわけで、心中ものによくドカンボコンが出てくる。ユーモラスなフレーズなのに、心中と相性がいいのであった。
そして、ドカンボコンといえば、川である。
品川心中では海に飛び込んで(突き落とされて)死に損なう。ドカンボコンのイメージではないし、フレーズとしても出てこない。
しかし心中ネタではなく、ドカンボコンだけ取り外して魂を吹き込んだような噺がひとつあるのだ。
「身投げ屋」柳家金語楼作。
五街道雲助、三笑亭夢丸といった、珍しい噺を好む人がまれに掛ける噺である。
私は円楽党の三遊亭朝橘師から聴いた。この人もまた、珍品を好む人。
噺の舞台が両国橋で、そして両国寄席で掛けられた。両国名物は相撲だけじゃないのだ。
身投げ屋は、身投げを商売にしようとする男が主人公。
人目につくように飛び込もうとすると、誰か助けてくれ、わずかでもめぐんでくれるというので、両国橋で商売を始める。
いにしえの新作落語らしい、くだらない噺。
身投げというシチュエーションを、一段ひねっているところが見事である。古典落語のパロディみたいな、しかしながらしっかり落語らしい噺。
新たなネタを探している噺家におすすめしたい。上方に持っていっても楽しいと思うのだが。
落語らしいというのは、新しいことを始めようとして、しっかり失敗するところ。主人公よりも上手がいたのだ。
歌舞伎に移植しても楽しいのでは。
最後にドカンボコンとまったく関係ないけど、ひとつフレーズを思いついた。
「いきなり佐平次」というのを。
本当に、思いついただけなんだけど。