三笑亭夢之助と手話通訳事件(下)

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2007年にあった、手話通訳事件を振り返る。
これは単なる一過性の事象ではない。
夢之助師の噺家人生をも大きく左右したものと思う。

夢之助師が手話通訳になぜクレームを付けたか。
理由は誰にでも、容易に想像できるもの。

  • 気が散る
  • そもそも手話で落語は伝わらない
  • 健常者に迷惑

障害者の立場にしか立てない人たちは、夢之助師をろくなもんじゃないと断罪していた。
ただ、ひとつの事象の後日評価のあり方としては、下の下だと思う。
夢之助師を一方的に断罪する人は、芸能のプロの高座に掛ける思いについて、あまりにも無頓着すぎる。
夢之助師が、「手話通訳ウ? しょうがねえな田舎の落語会は・・・まあ、適当にやって帰るか」という人だったら、事件になってはいない。
神聖な高座から、異物をなんとか排除したかった噺家に思いを馳せる人もいて欲しい。

もちろん、通訳だってプロ。ボランティアでフィーを受け取らないにしろ。
落語を通訳しようと思う点ではプロ。
でも、本質的な部分では、プロフェッショナルのその程度には大きな差を感じる。
そもそもなんでこの手話通訳、高座の前に主役である師匠に挨拶に行かなかったのか、大いに疑問。

夢之助師の出た落語会の主催者である島根県安来市は、事前に手話通訳を付けることを夢之助師に伝えていなかったとして、師と芸協に謝罪をしている。
まあ、当然。
だが、なぜ伝えるのを怠ったのか。当の手話通訳にとってもだ。
これもまた、想像するのは極めて容易。
市の職員にとって障害者福祉は絶対の正義。いわば神のルール。
嫌がる芸人がいることなど、想定外であったわけだ。非常に役所らしい。

立川志らく師は、ツイッターで手話通訳についてかつて述べ、物議をかもした。

こちらの場合、手話通訳は事前に挨拶に来ていたわけだ。しかしその態度がいささか傲慢であったため、演者はカチンと来たわけである。
通訳は、私はプロだから大丈夫だと練習もせず、そして本番では付いていけなかった。
まあ、現在の志らくを見ているとお互いさまな気はする。相手を傲慢にさせるのも、かしこまらせるのも、演者の個性のひとつである。
それはそうと、手話通訳が主役を押しのけてはいけない。
誰がもっとも大事か、それは最初から決まっているわけで、高座のお邪魔にならないようにと配慮するのは当然だと思う。
手話通訳付けとけばいいやという発想は、聴覚障害者自身をもバカにしていると思うのだが。
海外公演で字幕を付けるのと比べても、ずっと芸の伝わる度合いが低いと想像する。
手話通訳者は通訳としてはプロかもしれないが、芸人としてはど素人である。そんな人が間に入って、いったいどれだけの価値があるのか。
手話通訳を交えずに、聴覚障害者に楽しんでもらうなら、桂福團治師などがされているような「手話落語」しかないと思う。
これなら、手話独自の間で落語ができるわけだ。

役所主催の落語会の実態は、立川笑二さんのマクラから聴いた。
ご本人のエッセイに書かれたものと、ほぼ同じ内容。

ある師走の経験 事前の打ち合わせは入念に!

客を楽しませるのが目的のマクラ、それも脚色が相当入っている可能性の高いものについて、真面目に捉え立腹するなんてよくない。それははなから承知している。
しかも、先の志らく事件を織り込んでいる風だし。
高座の上に現れたフィクションだと思うべきなのだが、それでもなおしみじみ、やるせない話である。

しかし、2020年の常識に基づいて2007年を振り返ってみると、夢之助師のほうもまずかったのは確かだ。
現代は多様な正義の中から、調整を図っていかねばならない時代。「神聖な落語の邪魔をするな」という価値観も、相対的なものに過ぎないのである。
本当ははるか昔から、正義とはそういうものだ。でもひと昔前においては、声高に一つの正義を主張するだけでよかったのである。
現代においては、ひとつの正義だけを主張する人は、多数には受け入れてもらえない。そこはぬかった。

現代の噺家は、このようなとんでもない状況(手話通訳がいることがすべてダメというのではない)に遭遇したら、どうするか。
その場は精一杯やる。デキはともかく芸の苦難だとでも思って。
そして終了後、主催者に怒りはしっかり伝える。落語界を代表しているのだから。
物別れに終わるならその仕事は二度と受けないし、協会や仲間にも伝える。
これが正解だと思う。

そして、空いた枠を天狗連(アマチュア落語家)が埋める。それでいいのでは。

作成者: でっち定吉

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