国立演芸場9(中・三遊亭遊雀「四段目」)

桂枝太郎「初天神」

高座返しは先日浅草でも見た、女性の前座、三遊亭美よしさん。
前座二ツ目は10分しかないが、真打は15分枠。
桂枝太郎師の高座を聴くのはいったい何年ぶりだろう。20年近く開いているかもしれない。
歌丸師の独演会で、二ツ目の花丸の頃見た覚えがある。我ながらよく覚えているもんだ。
たまに浅草お茶の間寄席では聴く。
この師匠が今日のヒット。
登場して、「ここからまともな落語になります」。アンタも新作派じゃないかとツッコミたくなるが、実は壮大なシャレなのであった。
ただしトリの桃太郎師は自由演技ですだって。
初天神に入る。
芸協は季節感がないなと思う演目が、初天神と時そばで、年中やっている。
もちろんちゃんと季節は外して「お祭り」にしているので問題はない。時そばだって、「寒いね」のやり取りを外せばいつでもOK。

この初天神が実に面白かった。
既存の古典落語にギャグをたっぷり盛り込むというやり方はある。一之輔師の初天神もそう。
だが枝太郎師実に珍しいスタイルで、「古来よりあるスタイルの、ギャグたっぷり初天神」といった語り口。
古典落語だったら、昔からのクスグリは落ち着いて喋り、でも自分で作ったギャグなら強調するのは普通。
強調しすぎて自爆する、残念な人だっている。
そういう大失敗を念頭に置いたとき、枝太郎師のスタイルは実に斬新である。
冒頭からいきなり、息子の金ちゃんの変わったエピソードを語る。金ちゃんは学校の書道で「勝訴」とか書いてるのだ。しかし意図的に盛り上げない。
ちなみに、この後やたら裁判ネタが入るのだが、そのフリでもある。

基本ストーリーは普通の初天神だが、さらっとしたギャグがいちいち面白い。さらっとし過ぎて覚えてないぐらい。
そして、真っ白になった団子のくだりからさらっと、「ということが子供の頃あったんだ」。なんとこの10分、大人になった金ちゃんの回想シーンだったのだ。
金ちゃんの息子、ユウヤは今どきの子供。親と外出などしたがらない。金ちゃんは、連れてけと言わないユウヤが物足りない。
そんな逆転エピソードが続くという楽しい構成。
これが冒頭の「ちゃんとした落語」の正体であった。
前半だけでも十分見事で、さらに楽しい後日談が付く。贅沢な一席。

三遊亭遊雀「四段目」

続いてお目当ての遊雀師。
遊雀師を目当てに国立に来て、二度続けて「熊の皮」だった思い出がある。
でもこのポジションは20分枠。一般の寄席では仲入りに該当する出番で、もう少し大作が出る。
マクラから玉三郎の話を続けるので、芝居噺らしいことはわかる。
しかし先日も、浅草お茶の間寄席で、トリの高座をハチャメチャに務めあげていた遊雀師にしては、ずいぶんとおとなしめである。
だが、この控えめなトーンの高座が、なんともたまらないものでした。さすが。
ヒザ前でもあるこのポジション、トリの桃太郎師を立てるためにやりすぎてはいけないわけだが、「やりすぎない」にもさまざまな方法論がある。トーンを全体に落とす方法論で対処する遊雀師。
トーンを落とした噺は地味か。そうじゃない。そういうモードの演目をちゃんと用意しているのだ。
遊雀師から芝居噺を聴くのは初めてだが、見事なデキの「四段目」。上方でいう蔵丁稚。

初老(そんなこともないけど、そう見える)のおじさんなのに、子供の描写が上手い遊雀師。
ただ、よくよく観察してみると、別に子供になりきっているスタイルではない。元柳家だが、柳家の師匠たちとは方法論が違う。
遊雀師は、子供に限らずあらゆるキャラクターから、その内心を取り出して磨き上げ、客に純粋な形で提示する。
小僧の定吉の外面から入るのではなく、キラキラ光る内面がダイレクトに高座に映し出されている。
定吉は少々ひねて映るが実はピュアな子供。
芝居を観たい気持ち、観た感動、しかし主人にサボっていたのをバレたくはない。そんな子供の内面が、すべて高座の上に現れている。
なぜそんなことが可能か。
師は、複雑な気持ちを複合的に有した人間だったらこうなる、を詳細に描いて積み上げていく。しぐさや表情を、一人の人間に付け加えていく。
その結果、ひとりの落語らしくリアルな登場人物ができ上がる。その際肉付けに使った表情や所作を演じると、ベースである定吉の内面が自然とにじみ出てくる。
どうやらそういうことらしい。
足していった表情やしぐさなので、現実の子供がするものとは違う。でも、真にデキ上がった人間なのである。

遊雀師、明日に続きます

 

作成者: でっち定吉

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