平日野球を観ていると、だいたい息子にチャンネルを変えられる。
しかしそれで視た、昨日の「ネタ祭り!2020年秋」は面白かった。ネタ番組である。
仕事しながらだし、面白いといってもいちいち爆笑しているわけでもない。野球も漫才も、仕事の邪魔にならない点は結局一緒。
そんな中で、ミルクボーイのアスパラ漫才はもう圧倒的だった。仕事の手を完全に休め、聴き入っておりました。
直前に出ていた和牛が完全に吹っ飛んだものな。いや、彼らのファンでもあるが。
ミルクボーイは、ラジオも楽しみにしている。トークもかなりレベルが高い。
基本的にはM-1を獲ったときと同じ方法論の漫才ばかり。
だがマンネリ扱いされることはない。むしろ、しっかりしたテンプレートの存在を賞賛される。
一生食えるテンプレートを持っているのがそもそもすごいのだが、そこにとどまることのないミルクボーイ。
少しずつ、テンプレートを更新していくのである。これができない芸人が、一発屋となる。
一風堂がラーメンのレシピを少しずつ変えていって、飽きられないようにしているエピソードを思い起こさせる。全体の印象を変えないためには、変える努力も必要なのだ。
ラーメンの世界だって、旨いウマイと言われているうちに潰れるお店などざら。味は変わらなくても客の感想は変わる。
客の期待するテンプレートをちょっとだけ裏切ることで、常に新たな笑いが加わっている。テンプレ自体が、客の共通認識として確立している人にしか、こんな漫才は作れない。
だから、出所したばかりの人が現在のミルクボーイをいきなり観ると、ハードル高いかもしれない。
ともかく例によって「オカンの忘れたもの」のテーマは野菜。
だが作り方が斬新だ。
裏設定として、アスパラとベーコンの恋を描いているのだ。
ベーコンはアスパラを巻くための素材。そのベーコンは、アスパラを妹のように感じている。
アスパラがストーカーに遭えば、ベーコンは体を張ってアスパラを守るのだ。ストーカーは元彼のパプリカ。
新作落語でおなじみの擬人化を思い起こさせる。
近いところでは、三遊亭白鳥師の「豆腐屋ジョニー」。これは豆腐とチーズの悲恋物語である。
ご存じ柳家小ゑん師匠の「ぐつぐつ」にも、イカ巻とはんぺんの悲恋が出てくる。
だが、このような設定を漫才に持ち込もうとするなら、もっとストレートに持っていくのが普通。
「アスパラって野菜の中では人気ないよな」
「そうか? ベーコンのアスパラ巻きなんて旨いやないか」
「おいおい、アスパラがフィーチャーされるのはそこだけやろ。アスパラなんて、ベーコンなしでは独り立ちできない野菜やないかい」
などと振って、流行りの漫才コントに入っていく。決してそれが悪いというのではないけども。
芸協入りして売り出し中の若手、「おせつときょうた」も、こうやって回転寿司たちのドラマに入っていった。
だがミルクボーイ、テンプレの強さあってのワザだろうけど、多くの芸人がコント仕立てで描く重要部分を、遠景しか描かない。
アスパラとベーコンの物語は、客がどこかで見たことのあるストーリー。
妹のようにかわいがっているアスパラのためならなんでもするが、決して自分の意思で近づいてはいかないベーコン。みんな、そんな優しいベーコン男が大好きだ。
そこを確立してしまうなら、一般的な漫才コントのように背景を詳しく説明する必要がない。すでに伝わっている。
そして、擬人化に持っていく流れもすばらしいのだ。
最初は、今のアスパラの地位があるのはベーコンのおかげだなどと軽く振りつつ、気が付くとそこに人格が備わっている。変わらずベーコンとアスパラの物語を遠景で描き続けているので、人格はツッコミの内海の妄想でもあるのだ。
ボケの駒場のオカンを巡るふたりのやりとりが変わらず正面に出ている中で、裏の恋物語がどんどん煮詰まっていく。
この漫才に匹敵するのはもう、古典落語の「尻餅」ぐらいかなと。
尻餅は、表に出ているのはかみさんのお尻を引っぱたく八っつぁん。しかし裏に、餅屋が若い衆たちを引き連れ、威勢よく餅をついている架空のシーンが描かれる。
落語でも実に珍しく、二重に情景を想像させる高度な噺である。思わずこれと比較してしまった。
落語の場合は演者が消えて、表に情景が現れる。
ミルクボーイの漫才の場合、表に出ているのは、オカンの忘れた野菜を言い合うリアルな彼ら。そして裏に、ベーコンとアスパラが結ばれるかどうかというストーリー。
だが、表に出ているリアルな彼らもよく見ると、ちっともリアルではない。等身大のおもろい会話ではないのだ。
漫才だから当たり前かもしれないが、彼らは話をややこしく、ややこしく進めていく。
駒場は解決策をとにかく阻害するし、内海もまた、どんどん妄想をぶつけていく。
二人の会話のトーンも独特だ。
内海は声だけ怒っているが、態度はまったくそうでない。
駒場の投げるヒントを素材に遊びつつ、いかにギリギリの緊張感を保つかに腐心するのである。
こういうやり取りからも、落語を連想する。
先日「二十四孝」という、現代では珍しい噺を久々に聴いた。柳家小もんさんから。
二十四孝は、大家と八っつぁんという、落語では鉄板の会話が、緊張感をはらんでいる点やや珍しめだ。
だが最後は落語らしく、緊張はほどけて終わる。
ミルクボーイの漫才は、落語よりももう少し、適度な緊張をはらみ続けるのだ。
ミルクボーイのテンプレをそのまま使うのはいけないが、この独特の緊張感だけ、落語に輸入できないかなと考えた次第。
なんだか大家や隠居に怒り続けているが、そのわりには相手も楽しむ、そんな八っつぁんが作れないかな。