落語と教養

「教養としての落語」ではない。今日のテーマは落語の中の教養について。
落語という演芸は、多くの要素でできている。
なくてもいいが、あることで大きく世界が膨らむ要素があると思うのだ。
落語を聴くときは、私は教養の有無にかなり着目している。
教養といっても、「ちょっとした」が頭につく程度だが、落語の主たる登場人物、八っつぁんに対して隠居が語り掛ける内容はなかなか楽しいものだ。
実際に落語の歴史を遡ると、一般大衆である町人に対し、知識人が知恵を授けるという構造が存在したのだと思う。
町人は講談から歴史を学び、落語からは世間の常識や教養を得たわけだ。

たとえば「高砂や」。
「高砂やこの浦舟に帆を掛けて」がなんのことかはよくわからなくても(実際隠居はそこまで語らない)、なんとなく婚礼のようなかしこまった席には、固い儀式が必要なことを学ぶわけだ。
「短命」では悔やみを学び、「黄金の大黒」では祝いの口上を学ぶ。

ただ古典落語には、さらに深い教養が溢れている。
青菜では、植木屋の生活にはその概念自体存在しない「隠し言葉」が出てくる。これなど、植木屋の立場に自分を置いてみると、新鮮な驚きを感じられるはず。
想像だが、昔の客はきっと、登場人物のうち地位が下の者に深く感情移入していたと思う。その分、オウム返しをしてみたくてたまらない植木屋の気持ちに近かったはず。
別に今さら、過度に植木屋に感情移入して聴くこともないと思うのだが、その視点は持っておいてもいいんじゃないか。

「道灌」や「雑俳」、「一目上がり」にも、教養が溢れている。
道灌も青菜と同様、オウム返しの噺だが、「教養」をキーにしてみると、なぜ八っつぁんが遊んでみたくなるのか、結構理解できる気がする。
一目上がりは、一休禅師の悟であるとか、七福神の絵に添えられた回文「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」など、教養の宝庫。
雑俳もそうなのだが、落語の場合、難しいテーマをわかりやすく聴かせてくれるということがある。聞き流している客もいていいけども。
まさにこの構造を持っているのが、「天災」であり「二十四孝」である。
乱暴者の八っつぁんはありがたい話を聴き、自分なりに感心するのである。もちろん付け焼き刃でズレてはいるのだが。

狂歌の入る落語も、みな教養の塊。
「掛け取り」や「紫檀楼古木」。先の青菜のマクラにも、太田南畝の狂歌が出てくる。

落語が学びでもあった時代を想像すれば、これから新たに落語を作るにあたっても、教養を盛り込むのは大事な要素であることがわかる。
春風亭一之輔師は、結構自覚的に「教養」を落語に加えている気がする。
ウンチクとして加えるのではなく、登場人物の驚く形で古典落語に足している。
きっと寄席に通う高校生だった頃、「教養」自体を落語から得ていたのに違いない。

落語を作ると言えば新作。
楽しい新作にも、教養が高い確率で盛り込まれている。
芸協カデンツァの一員、桂竹千代さんは、古代史落語をやっている。
日本の神話の時代を、地噺で語るのである。
こういうのも、「お血脈」など落語には伝統があるのだ。新たに作っても何の問題もない。

クイズ王の古今亭今輔師も、教養溢れる新作を多く作る。
七福神の全員をルーツから解析した新作落語は実に楽しいものだった。
七福神は、恵比寿以外はインド・中国から来たもの。ルーツを紐解くことで、七福神に思わぬ歴史があることが語られるのである。
もっとも、七福神たちが人気回復のために会議をするという設定自体は極めてバカバカしい。

柳家小ゑん師はオタク落語を多く持っている。
電気の知識はあまり教養としては見てもらえないが、仏像オタクの「ほっとけない娘」にはなかなか結構な教養が漂っている。

落語協会の二ツ目、三遊亭天歌さんの「無限しりとり」という噺は、教養をうまくスパイスにしていた。
しりとりに教養はなくてもいいのだが、沖縄やアフリカに「ン」で始まる言葉が多いという言語学的教養を盛り込んだことで、一気に世界が膨らんだ。
例として、チャド共和国の首都「ンジャメナ」など。
これがあると、「ん」が付いたら負けというしりとりの基本ルールすら崩せるのであった。

漫才やコントも悪いものではないのだが、落語には教養という得難い武器があることを、ときどき気に掛けてください。

作成者: でっち定吉

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