稽古すりゃいいってもんじゃない(らしい)

金曜日は両国の江戸東京博物館で、三遊亭遊馬師を聴いてきた。
中でも「井戸の茶碗」にいたく感動した。
感動したといっても、今さら改めて、登場人物の清冽さに感動しなおしたりするわけではない。
もちろん人物の気持ちのよさあっての噺ではあるが、それよりも、聴き手を気持ちよくさせてくれる演者に感動したのだ。
一昨日の記事は、記憶だけをもとに書いたもの。印象が混乱するのを避けるため、あえて私のVTRコレクションは聴かなかった。
そして記事には、そのVTRとは結構違っていたと書いた。現にそう感じたので。
その後改めて、2016年の放映である井戸の茶碗を聴いたのだが、先週聴いたものと結構中身が同じだったので、二度驚いた。
2年ほど前に結構この噺を聴き込んでいたのにも関わらず、今回現場で聴いたものが実に新鮮だったので。
当時のもの、すでに面体改めは短く(今より短い)、仇討の脱線もない。
どういうことか。
遊馬師の噺を聴いた私、展開を抜き出して理解をしてはいないということだ。それ以外の部分に惹かれて繰り返し聴いたということ。
そして、それは演者の側の特性が大きいと思うのだ。
展開を抜き出したら結果的に同一でも、遊馬師は恐らく、毎回一から組み立て直して喋っている。
それが新鮮さを生む。
そのようなスタイルは当たり外れもあるだろう。でも遊馬師、アベレージは非常に高いから、成功しているのだ。

こういうスタイルが落語界に多いのかというというと、どうだろう。
同じ噺をたびたび聴いて、なお新鮮という師匠は他にももちろんいる。
落語協会のほうで思い出すと、橘家文蔵、柳家小ゑん、古今亭駒治。
なんと新作派がふたり混じったが、でも小ゑん師の「ぐつぐつ」も駒治師の「鉄道戦国絵巻」も、聴くときの気分としては古典に近い。
何度聴いても新鮮な師匠たちは、登場人物の内面描写を重視しているのだろう。
落語の登場人物は展開の先を知らないので、知っているつもりで喋らないという工夫があるはず。
でも、そうした工夫も、遊馬師のスタイルとはいささか違って聴こえる。

すでに遊馬師の記事に書いたことの繰り返しになるが、遊馬師は意図的に稽古をしない人なのではないか。
もちろん、若い頃は徹底的にやっただろう。
だが稽古しすぎると、予定調和的な高座になってしまう危険があるのだ。

漫才についても、こんなことを言っている人たちがいる。
漫才の場合、相方がいるから、稽古はさらに重要に思える。ネタ合わせというやつ。
だが、ネタ合わせを重視しない、というかすべきでないと考える芸人もいるのだ。
それがナイツであり、中川家である。
寄席の世界の漫才師でも、「ホームラン」が舞台で同じことを話していたと記憶する。
もちろん、新ネタを掛けるときに、ある程度のネタ合わせはするはず、だが、それは予定調和の芸をするためではなく、最低限漫才として成り立たせるために過ぎない。
稽古の段階からかっちりしたものを作って出そうなんてことはしないのだ。
舞台の数が多い芸人だと、こういうことができる。日々だんだん合わせていけばいい。
もちろん、そこはプロで、まだでき上ってないネタで客を白けさせることはない。
プロなんだから、それぐらいのことができて当たり前というのがこれらの漫才師。
確かに彼らの漫才には、予定調和がない。

ナイツ塙は、ノンスタイル石田と組んだシャッフル漫才大会「ドリームマッチ」で2014年に優勝したが、とてもつまらなかったと語る。
石田の書いたネタを、徹底的に練習させられたからなのだそうだ。
単発の大会なのだから方法論は別に間違っちゃいないが、漫才師としての美意識にはマッチしなかったのだ。

落語でも同じだと思う。
落語の登場人物は、しばしば勝手に喋りだすもの。勝手に喋りだす人物がいれば、当然アドリブで突っ込まないとならない。
漫才と同じ。
その、演者も驚くぐらいのワクワクを活かして、高座にぶつけない手はないと思う。
だから稽古しすぎるとよくないのだ。

遊馬師の記事中では先代馬生を引き合いに出したが、昭和の名人三遊亭圓生もそうだったという。
圓生は若い頃、すべての噺が予定調和になってしまい伸び悩んでいたのだ。
それを打破するためどうしたか。覚えた噺を忘れることにしたのだ。
しばらく封印し、代わりに新しい噺を覚える。新しい噺が予定調和になったら、それもまた封印。
数年経って、封印した噺を思い出しながら喋ってみると、固い部分がほどけていい感じになったのだそうで。

作成者: でっち定吉

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