奥山景布子「圓朝」

たまには小説のレビューを。
落語を舞台にした小説は、そんなに数多くあるわけではない。
故人では、噺家鶯春亭梅橋の弟であった「なめくじ長屋捕り物さわぎ」の都筑道夫。
現代では愛川晶や、田中啓文(笑酔亭梅寿謎解噺)。

つい最近読んだ奥山景布子「寄席品川清洲亭」がやたらと面白かった。
第1巻では物語はほとんど進行しておらず、ぜひ続編を読みたいと思っているが、私は相変わらずの図書館通い。
清洲亭の続編はなくて、その代わりに借りてきたのが「圓朝」である。
これをたった今、読み終えたところ。
2019年の書下ろし単行本である。

ハードカバーだがわりとコンパクトな小説であって、すぐ読み終えてしまう。いささか物足りないぐらいの。
三遊亭圓朝の一代記であって、シリーズにはしないまでも、分冊のボリュームにだってできただろうに、そこに作者の潔さを感じる。
劇中、圓朝の作った数多くの落語が登場するが、その内容に深入りしないところにも潔さが漂う。
圓朝が現実と噺との間の虚々実々をさまようなんて、いかにもありそうな小説作法だけど。そういうスタイルじゃない。
でも、作者がそれらの圓朝作落語を完全に消化吸収していることはよくわかる。消化しているけども出さない贅沢。

私自身は、牡丹灯籠、真景累ヶ淵、名人長二などを少々齧ったぐらいで、圓朝落語について偉そうな見識はない。塩原太助になるとお手上げ。
でも、古い怪談噺が大好きな人も多数いるだろう。そういった人たちにとっては、この小説、たまらないんじゃないでしょうか。
解釈を小説によって押し付けられたりせず、自分の知っている怪談噺を小説にトッピングして楽しめるはず。
いっぽう、落語初心者にとってはどうだろうか。怪談噺の内容が説明されないので、あまりにも引っ掛かりがないかもしれない。

小説の主人公圓朝は、自作の世界こそさまよわないが、怪異現象はたびたび体験する。
師匠圓生の生霊に会い、元弟子が経営する存在しない古本屋から本を買う。
もちろんあり得ないことだが、小説の中では怪異としてではなく、事実として淡々と描かれる。
江戸から明治へ、風俗が急速に変容していく中、異なる時代をまたがって生き抜く噺家ならではの出来事である。

本書はそして、よくできた落語評論でもある。
評論だって立派なエンターテインメントとなる。
私はつい先日、柳亭左龍師の「淀五郎」から見事な評論精神を感じたばかりでもある。それもあって、この評論的噺家伝記に感じ入る次第。

資料的価値も高い。
圓朝が、なぜか師匠・圓生(二代目)にいやがらせをうけたことは、史実として知られている。
トリの圓朝が掛けるべき噺を、なぜか圓生が先に出してしまうという。
このエピソードに、小説ではさらなるリアリティが与えられている。
新しいことを始める圓朝を、師匠は許せなかったのだと。この解釈は、弟子を多数持ってからの圓朝が、当時を振り返ったとき初めて実感するのである。
噺家の世界に触れる程度の素人からしても、きっとそういうことだったのだろうと思ってしまう。
とはいえ小説内の圓朝、決してアバンギャルドな改革者ではない。既存の落語界を破壊しようとした人としては描かれていない。
むしろ、伝統をわきまえすぎるぐらいわきまえた人、次世代に何を残すか追及してやまない求道者として描写されている。だからこそ、さらに新しい時代を生きる自分の弟子とも、ときには衝突する。
もっとも落語の歴史を現代から振り返るなら、やはり圓朝のいた時代はかなり特殊な気はするのであるが。でも同時代を生きた人からすると、ちょっとした人気者のレベルだったのかもしれない。
神さまであることに気づいていた人はいなかったのだろう。ご本人も含め。
神さまどころか、私生活では二股を掛けぐずぐずしていて、結婚しなかったほうに子供を産ませてしまう、だらしない男。
この子供は手癖が悪く、最後は廃嫡されたそうで。

資料的価値はさらに続く。
昔の芸人の名前が同時代を生きるものとして多数登場する。当たり前なのだけど。
圓朝の弟子であるステテコ踊りの「鼻の圓遊」や、ヘラヘラの萬橘、釜掘りの談志など珍芸の人たち。
功成り遂げた圓朝の次世代は、改革者圓朝も眉をひそめる珍芸の持ち主たち。
珍芸に眉をひそめるのは、生理的な思いだけではない。江戸から続く芸事にやたら厳しい明治新政府と折り合いを付けていきたい、実務家であり、弟子の面倒をしっかり見ていきたい、一門の総帥である圓朝がいたからなのだ。
しかし圓遊は珍芸ステテコ踊りだけでなく、「船徳」を生み出した才人でもあった。
圓遊は圓朝に近すぎていて、圓朝のような芸ができないことを知り尽くして、独自の道を歩んだのだという。

コロリ(コレラ)の流行により、寄席が立ち行かなくなり、噺家が困窮する場面もある。見事な予言。

圓朝の父の名が、冒頭で「橘屋圓太郎」として出てるのだけど、ここ1か所以外はすべて「橘家圓太郎」だ。
これだけ気になった。どっちでも正解なのかもしれないけど、小説の中で断りなく変わっているのはミスじゃないのか。
今は橘家だが、初代(圓朝の父)は橘屋とWikipediaにはある。ちなみに、林家正蔵が昔は林屋正蔵だったのと同じである。
現在は他の亭号でも基本的に「家」の字が主流だが、最近「玉屋柳勢」という古い名を復活させた真打が生まれたところ。
父・圓太郎は、常に圓朝の一番の理解者として描写されている。
思えばこの人が一番不思議だ。放浪癖が抜けなかったこの噺家から、どうして圓朝のような一門を率いる人が生まれたのであろうか。

というわけで、落語脳のさまざまな部分を刺激してくれる、得がたい小説であります。
丁稚推薦。お金のある方は買って読んでください。

作成者: でっち定吉

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