たまには寄席のではない、漫才について。
昨年、「銀シャリ」の優勝した「M-1グランプリ」について、これをネタにした記事を書き上げたのですが、ちょっと寝かせていたら時機を逸して出せなくなってしまいました。もったいないのですでに書いた分も活かし、今年2017年の「M-1グランプリ」と併せてちょっと書いてみます。
私は落語好きであるが、幼少期は漫才・コントと落語を同列に認識していた。
今では落語はお笑いとは切り分けているけども、落語以外のお笑い全般、視れば楽しい。落語以外を視るのも悪いことではない。
落語とM-1の、直接的なつながりである審査員の小朝師匠については、あいにくなにもコメントすることがない。
お笑いのレベルは、私の子供のころから比較するとケタ違いに上がっている。今の芸人さんは本当に大変だ。
特に、漫才のレベルは著しく高い。ネタ番組が減っている風潮に逆らってレベルが上がるというのはどういうことなのか。
キングオブコント優勝者のかまいたちが、M-1で太刀打ちできないあたりに漫才の高いレベルを感じる。
いっぽう、私が落語の寄席で聴くゆるい漫才もある。ナイツは賞路線から完全に降りて、こちら芸人路線に専念しているようである。
こちらの路線はこちらでまた面白い。そして、活躍候補も絶えず現れてくる。
40年前の漫才ブームは、振り返るとボケ芸人のタレント性だけが目立っていたものだ。
技術面からはもう、現代とは比較にもならない。
テンポの速い芸は確かに斬新だったが、それだけだった。その流れは時代と一緒にどこかに消えた。個々の才能はともかく。
落語の言い立てみたいに、人を高揚させるといった機能までは有していなかったのだ。
漫才ブームの頃の芸人さんが、ひところテレビで昔の芸をよくやってみせていたが、正直見られたもんじゃない。
最近はツッコミ芸人のレベルが飛躍的に向上し、それに連れボケの腕も向上し、漫才自体のレベルが著しく上がった。
昔の芸はダメか。別にそんなことを言いたいわけではない。私たまに「いとし・こいし」「ダイマル・ラケット」など漫才ブームよりさらに昔の動画をYou Tubeで視ているが、これが実に面白い。
ダイラケさんなんて、活躍期にそもそも間に合っていないので、懐かしさなどはじめから持っていない。だが、実に新鮮。
今、志ん生・文楽などを聴いて喜ぶのと近い感覚ではないか。
よくできた古典落語と同様、「芸の普遍性」を獲得した漫才なのだろう。
昨年の優勝者「銀シャリ」。彼らは、古き良き時代の香りの漂う漫才だと評される。
「昭和の芸」などというが、いつの昭和なのかよくわからない。本当に昭和の雰囲気とイコールなのは、統一したスーツだけだと思う。彼らは、古き良き時代からええとこ取りをしているだけであって、本当に古い漫才をする気はないはず。
だが、現に古き良き時代の香りは漂っている。その正体がなにかというと、落語にも通じる「会話の楽しさ」だと思う。
漫才なのだから「会話の楽しさ」はあたりまえではないか。これがそうでもない。
笑いの構造は、コミュニケーションギャップによるもののほうがたぶん多い。会話が成り立っておらず、完全なコミュニケーションが成立しないイライラに笑いが生まれる。落語でいうと「うどん屋」とか「蜘蛛駕籠」。
多くの漫才でも、二人の会話のズレや対立を拡大することによって客を楽しませる。しかし、銀シャリの漫才は、調和を非常に重んじている。
ツッコミ(橋本)はボケ(鰻)を、必死で怒ったりしない。かといって、過剰にボケの振りを拡大してみせたりもしない。しっかりええ具合に突っ込んでいる。
要は、上方落語における「喜六と清八」「喜六と甚兵衛さん」の会話なのである。東京だと「ご隠居と八っつぁん」。「替り目」の亭主とおかみさんでもいい。
会話をする二人がまず楽しいから、客も楽しくなるのだ。
そういう、幸せな空気感が、聴き手の郷愁を呼び起こし、「昭和の漫才」という認識になっているのだと思う。
「銀シャリ」の漫才、そのまま落語になる芸だ。もちろんネタをパクったらいけないが、その呼吸を真似してみたら、立派な新作落語ができ上がるのではないか。
今年のM-1はとろサーモンの優勝に終わったが、個人的には昨年に続いて準優勝の「和牛」がとても面白かった。私だけでなく世間全般の意見みたい。
コンテストの結果に異論を唱えるのは野暮です。だから別にいいのだけど、世間の認識に抗ったとろサーモン、この先やっていけるのだろうか?
もともと、スタンダードな芸(そんなものがあるとして)に対するアンチテーゼのはぐれ芸。はぐれ芸が権威を得てしまうと、芸人人生狂うのではなかろうか。目標にしていた冠であっても。
それはそうと、昨年も面白かった「和牛」、昨年よりもパワーアップしていた。
和牛は銀シャリとは逆に、「コミュニケーションギャップ」を広げたネタである。このほうが(一見)ネタは作りやすい。
面倒くさい男に、実は世間の人々のちょっとした不満を代弁させているところが上手い。突き放して笑う一方、感情移入もしてしまう。喜六というより与太郎。
だがさらに上手いのは、二人がだんだんと世界のルールを変容させてくるところ。面倒くさい男の相手をする旅館の女将は、常識人でなければならないはずだが、常識から徐々に徐々に逸脱してくる。
最初は、「この世の常識に逆らう面倒な男」のネタからスタートし、最終的には「おかしな世界におけるおかしな人たちのやり取り」に変わってくる。
そういう世界においては会話の「対立」は実はなくて、空気感を競って変容させるために機能する。世界を変える共同作業なのだ。
銀シャリと真逆のパターンなのにも関わらず、共同作業の点ではよく似ている。これもまた、研究すると落語、特に新作落語に活かせるのではないでしょうか。