新春の初席だけ寄席に行く人というのは多いようである。普段は落語になどさして興味がないが、正月だけは行ってみたいという人も多いだろう。
だが、落語の一番楽しい季節は、個人的には12月、師走だと思う。特にこの時季にしか聴けない噺が多い。
落語の演目というものは、年中掛けられる噺もあるが、季節によってガラっと変わる。
中でも年末の噺など、ごく限られた時季にしか聴けない。
芝浜を真夏にやったりはしない。
師走には師走の噺がある。この、せいぜい1か月間に集中して掛かる噺が。
たとえばこんなの。借金取り対策の噺であり、または富くじの噺。
- 掛け取り
- 尻餅
- 睨み返し
- 言訳座頭
- 御慶
- 富久
先日古今亭志ん丸師匠で聴いた「穴どろ」も、年末バージョンだった。
年末に支払いができなくて年が越せないという悲喜こもごも、現代人にだってなんとなく腑に落ちる。
ただ、やれる季節を限るため、珍品が多い。メジャーなのは掛け取りくらいで。
年末に掛かる噺のひとつ、上方落語の「けんげしゃ茶屋」。茶屋遊びの伝統に乏しい江戸にはない噺。
強烈な噺である。
舞台は正月だが、新年に掛けられるとは思えないブラックな内容。
前半は茶屋遊びと大便をコラボするという妙な内容。少々汚ならしいが、これはまだプロローグに過ぎない。
年が明けて新年、本題に入ると、娘芸者とその「けんげしゃ」(ゲン担ぎ)一家に対し、パトロンの旦那が、人の生き死にをネタにした、悪ふざけの限りを尽くす。
新年早々、シャレの限りで葬礼の行列を仕立てて遊び、けんげしゃ一家が泣き叫ぶのを見て楽しむという、それはひどい噺。
現代感覚からいうと、一家を世話しているのをいいことに、パワハラの限りを尽くしているようなもの。
「米揚げ笊」「ざるや」など縁起を担ぐ噺が多数存在する中で、ダークサイドを担当しているのが「けんげしゃ茶屋」。
だが、嫌がる人がいても仕方ないこの噺、ツボにはまるとそれは楽しい。
このブログで今頃取り上げていると、下手すると年始に掛かってしまいかねないのだが、このバチ当たりな噺を数日続けて取り上げてみます。
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「けんげしゃ茶屋」は人間国宝、故・桂米朝がやっていて、弟子の米二師が引き継いでいる。
他には五代目文枝一門の桂文珍師が掛けているが、あとは知らない。
以前「菊江の仏壇」を当ブログで取り上げたときにも感じたのだが、落語界屈指のインテリ、噺に理屈でアプローチする米朝にとっては、菊江の仏壇同様にやりにくい噺だったのではないかと思う。
主人公「村上の旦さん」について、なぜこの人はこんなひどいいたずらができるのだろうと考えだすと、たぶんやれない噺。
米朝は滅びかけた噺を多数復刻し、後世に伝えたラクゴジャイアントであるが、その発掘例の一つ、けんげしゃ茶屋をやる人は少ない(と思う)。
米朝の速記本の自己解説に確か載っていたが、この旦那はいささかキツイシャレをかましてもいいくらい、一家に対して世話をしているのだという肚で語ることが必要だったようである。
前半の大便ネタにしても、極めて下品である。奉公人を何人も使い、茶屋遊びをする商家の旦那に似つかわしい内容ではない。
この、品のない噺を、上方落語屈指の上品な、米朝・米二の師弟が掛けているのが面白い。米二師など、「上方落語というものは汚い噺が多いのでございます。東京落語はもうちょっと上品」とマクラを振っているのだが、喋っているご本人が極めて品のいい噺家である。
噺に理屈で迫る米朝・米二師弟もいいのだが、人間のダークな側面を隠さない文珍師には、とても向いている噺だと思う。
NHK「日本の話芸」で堂々と、とぼけたムードで掛けていた録画を持っている。
これなんと、1月2日早朝に再放送されます。新春早々、NHKさんもやりますな。
文珍師は米朝と異なり、悩まない気がする。こんな人間もいてるんちゃうか、と。
ちなみに、もし東京で演者がいるとすれば、文珍師と同様、ダークサイドを隠さない人がいい。
菊江の仏壇もやり切ってしまう五街道雲助師ならぴったりだと思うのだ。通じるかどうかギリギリの線を攻めるシャレ、雲助師なら、こういう噺なんだ、と堂々と語れるはず。
他には、三遊亭遊雀師などどうかな。
私も理屈で落語を聴くほうの人間なのだが、その実、けんげしゃ茶屋は、感性にとてもよく訴えかけてくる楽しい噺なのだ。
落語を聴きまくっているうち、脳内に変な領域ができてくるらしい。その領域に対して、理屈抜きに響く噺というものがあるのである。
脳内に落語エリアのできている、私にとってはもうたまらん噺である。
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「けんげしゃ茶屋」、聴き手の立場でも、ゲンをかつぐ一家に過剰に肩入れして聴いてしまうともうダメだろう。落語なんて無理して聴くようなものでもないけども。
前半の大便ネタのほうが、客観的にはまだ罪が軽い。被害者もさしていないし。
文珍師は汚いネタを、実にサラっととぼけ気味に語り爆笑を生み出している。
シャレで粟餅(幾代餅)を本物そっくりにつくねさせたものを、茶屋の座敷で落っことし、芸者や幇間の一八をからかう旦那。大騒ぎするまわりを尻目に、「自分で出したもんやさかい自分で片付けるわ」とパクっと口に入れてしまう。
桂米二師は、この汚い前半にまず葛藤があるようで、上方落語の下品自慢から入るのだが、なに上方も江戸も大差はない。「勘定板」は東京でもやるし、なによりも東京には家見舞(肥瓶)がある。
下ネタに対するファンの寛容性は、東西で少々違うかもしれないが。
家見舞以外にも、東京落語にうんこ噺の傑作はある。
新作落語、三遊亭円丈師の「肥辰一代記」。これでもかといううんこの噺。うんこ三部作の一つ。
私は非常に好きなのだが、円丈落語全集によると、客席にひとりは嫌な顔をしている人がいるらしく、円丈師としてもあまりやりたくないらしい。
そういうひとりのファンの心中を無視していいかというと、そう言い切るのもいささか乱暴である。落語というもの、本質的には客に受け入れてもらわないと成立しない。
上方のファンのほうがおおむねうんこには寛容だろうが、だからといってみんなが「肥辰」を聴けるかどうかはわからない。
ちなみに肥辰は大好きな私だが、家見舞は好きではない。汚い噺という以前に、世話になった兄貴の一家に肥瓶を持っていき、その水を口に入れさせて平気な了見が、何度聴いてもよくわからないのである。
だから、汚い噺は嫌いだという方も、「あたしはシャレがわからない」などと言って悩まなくても別にいいと思います。
先ほどからうんこを連呼しているけども、これで不愉快になる方だっているでしょう、きっと。
旦那と違って、人を不愉快にする目的はないけど。
噺の骨格としては、この前半は、村上の旦さんという人間のシャレのキツさを説明するためのものだろう。
旦那の回想シーンとして表されるのだが、情景が生き生きしていていかにも落語らしい。幇間の一八も、回想シーンのみに出てくるとは思えない、立体的なキャラ。
「ババの旦さん」と呼ばれて新町に遊びに行けなくなった旦那、ミナミに河岸を替えている。
村上の旦さんは、ミナミの芸者「国鶴」のパトロンである。
日が変わって元日である。新春早々、国鶴の茶屋で旦那の悪じゃれが爆発する。
茶屋の知識が乏しいので、今一つわからないところがある。
村上の旦さんは新年、なじみの茶屋に出かける。これが、パトロンとして国鶴に持たせた「鶴之屋」という名称の茶屋なのだろうか。
国鶴やお母さんは、その茶屋の一階に住んでいるようだ。林松右衛門の表札が出ているのだから、たぶんそうなのだろう。
でも、名前だけ出てくるあるじの松右衛門は新年なのにその場にいない。パトロンを置いて、年始の挨拶に出かけているのであろうか。
落語のおかげで、行ったこともない吉原には随分詳しくなったが、茶屋のことはまるでわからない。
私だけがわかっていないわけではないから、まあよかろう。
いずれにせよ、幇間も二人も出てくるし、難易度高い噺だ。
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そういえば、東京にない「けんげしゃ茶屋」のできそうな人をもうひとり思い出した。三遊亭歌武蔵師。「たばこの火」など茶屋噺をお持ちであるし、文珍師に噺も教わっているそうなので。
歌武蔵師も、ひどい噺を嫌味なく堂々と語れる人である。
けんげしゃ茶屋、冒頭で村上の旦那は、道でばったり又兵衛さんに逢う。
うちにいても店にいても居場所のない旦那。多くの奉公人を使っており、店にいなくても勝手にお店が廻ることを説明する大事な場面。旦那が基本的には鷹揚な人であることも描写している。
「ババの旦さん」のエピソードを語った旦那、又兵衛さんに、翌日の葬礼コスプレの依頼をする。
その後場面変わって正月の街となる。正月の楽しい情景が描かれて鳴り物も入る。キツイ生き死にのエピソードの前の大事な場面。
旦さんの悪じゃれ、パワハラだと考えたらとても聴けない内容なのだが、飄々と語られる人の生き死にのシャレ尽くし、これが非常に楽しい。
屠蘇を土葬(どそ)。
お燗をつけてもらってからも、やたら熱いと文句。直火で燗をつけたのではないか、「ひかん」したのではないかと。
国鶴が、「ちゃんとお湯でお燗しました」と怒り気味に言うと、「ほたら《ゆかん》やな」。
さらに煮しめを死に目、にしんを死人と言い換えて楽しむ。
おせちのどんな言葉からも、不吉なことを連想できる旦那の才能、すばらしい。
悪ふざけであるが、どこか哲学的でもある。「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」と旦那は言うのだが、一休禅師が正月に、杖の頭にドクロを据えて「ご用心」と練り歩いたエピソードを彷彿とさせるではないか。
まあ、あくまでもシャレなので、よく解釈し過ぎるのも野暮なのだが。
国鶴の親父さん、林松右衛門に還暦祝いで送られた句が短冊にしたためてある。
「のとかなる はやしにかかる まつえもん」。もちろん、「のどかなる」と読む。「はやし」は、「林」と「生やし」を掛けているのだろう。
村上の旦さんはこれを勝手に読み替える。
「喉が鳴る 早や死に掛かる 松右衛門」
こう言って、国鶴やお母さんがキーッとなるのを見て酒を楽しむのである。
村上の旦さん、家族にどれだけよくしてくれていようが、どう考えても嫌な人だ。
だが、可愛いいたずらだと映らないこともない。男子小学生が気になる女の子に悪さをするみたいな。
この噺がとても楽しい理由は、悪じゃれを言う旦那にいつの間にか感情移入してしまう点にあるようだ。本当は言ってはいけないが、でもどうしても言いたいということ、誰にでもあるのではないでしょうか。
気を悪くするようなことは言えないし、言いたくないという人もいるだろう。そういう人には楽しめない噺。
だが、この旦那が羨ましくなる人も多いのでは。私だ。
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新年早々、ひたすら陰気なシャレを極める旦那と、なんとか盛り上げたい国鶴との戦い。
なじみの芸妓さんを呼んでなんとか陽気になりかけたときに、旦那の依頼で葬礼コスプレの又兵衛さんたちが現れる。
「冥土からしぶと(死人)が参りました」。
京都にある「御影堂(みえどう)」に住む「渋谷藤兵衛」なので、略してめいどのしぶと。
「正月丁稚」では本当に渋谷藤兵衛という名の主人が出てくるが、けんげしゃ茶屋では又兵衛さんの偽名である。
ちなみに、「渋谷藤兵衛」で検索すると最初に出てくるのが「東横のれん街」の「藤兵衛」という寿司屋である。店名、「渋谷藤兵衛」だったらいいのに。
しぶとは旦那と一緒になって、縁起でもないことを次々口走る。
「旦那さん、しぶとが友を呼ぶとはいかがです」「友引じゃなあ」。
又兵衛さんもアドリブに強い人で、芸妓さんの名前を次々と縁起悪く言い換える。旦那と見事な阿吽の呼吸。
「いちりょう」「しばりょう」さんの名前を「生霊に死霊」。
「きぬまつ」「こでん」さんの名前を「死ぬ松に香典」。
怒る国鶴を旦那に「鼻垂れ芸者じゃ」と紹介されると、「鼻も垂れるやろ、名前が首吊る」。
もちろん国鶴はキーッとなるので、ますます旦那は喜ぶのである。
さらにカオス極まる茶屋に現れるのが幇間の繁八。
上方落語も江戸も、幇間の名前というとまず一八、次に繁八である。この噺では、回想シーンにすでに一八が出ているので、当然のように繁八が出る。
一階で泣くお母さんに、盛り上げてみますと請け負って旦那の座敷に上がり込み、幇間らしくパアーと盛り上げようとするが、悪じゃれを極めたい旦那をたちまちしくじってしまう。
しまったといったん退いて旦那の機嫌を取ろうとする繁八。
旦那も見事なダークサイドである。光のジェダイではシスに対抗できない。なんのこっちゃ。
とたんにダークサイドに転向した繁八、改めて死に装束で現れる。
繁八改め「死に恥」と改名し、頓死玉の憂い(としだまのお礼)に参上したと。
「これは心ばかりの位牌(祝い)でございます」
これで旦那のご機嫌が直るが、たちまちしくじってサゲ。
繁八が出てからは、国鶴たちを遠景に追いやり、旦那と二人でトントーンとサゲまで噺が進む。
縁起が悪いと泣く善人は消えて、ダークサイドが勝利を収め、シャレ尽くしだけが残るのである。見事な構図。
ツボに嵌ると何度聴いても楽しい噺。
言葉もいい。「ひねは後からはじける」であるとか。
「知らす」などという古い動詞がふんだんに使われているのも気持ちがいい。
というわけで、「けんげしゃ茶屋」、なんとか年内で終わりました。