THE MANZAIでウーマンラッシュアワーを視た。
ほぼ村本のピン芸。相方中川パラダイスはいるのかいないのか。
批判は当然集まるとして、スタイルに関する批判の声も多かった。「漫才じゃない」と。
私も、子供の頃よくあった、ツッコミが仕事をしない漫才が大嫌いなので、一応わかる。こうしたスタイルは、お笑いの進化によって確かに駆逐された。
だが、「漫才じゃない」が、とってつけたような批判に映るのも確かだ。
実際にこう批判した人にも、モヤモヤがあるだろう。お笑いファンを自称する人ならなおさらだ。
こう批判した人は、実のところ「つまらねえ!」と心底言いたかったのだ。だが、お笑いに真剣に向かい合う人ほど、そう言えなかった自分にモヤモヤするわけだ。
爆裂喋り自体は、ちょっとユニークに、才能に感じてしまうので、モヤモヤが貯まる。
実際、やべっちが一言コメントしていたように、「ロックや」という評価だって立てていいわけだ。やべっちがそこまで考えて言ったかどうかは知らないが。
モヤモヤする人は、たけし御大のコメントに頼る。
「あんなの北千住によくいたな」
見事なコメントだが、多くの人が期待するような、「批判」を込めたニュアンスでは、たぶんなかった。
ムキに映る芸を、一段上から茶化したかっただけだと思う。
ツービートだって、ツッコミは仕事しない漫才だった。ウーマンラッシュアワーのスタイルは批判しないだろうし、漫才中のメッセージについても、たぶんニュートラルに眺めている。
他人の言説に頼らず、思ったことは言ったらいい。
「ウーマン村本はつまらん!」と言って構わない。
「態度が失礼で、気持ち悪くて、思想が過激だから否定」
それはいけないことなのか? いやいや、全然OKですよ。
だからこそ多くの芸人が、客に快を与えようと日々頑張っているのです。客に受け入れてもらわないと、評価以前の問題だ。
意図的に不快感を与えようとしている芸人など、否定して構わない。否定した自分自身をマイナスに思うことなどない。
「もうテレビでは視たくない」も全然OK。
あ、私丁稚定吉の見解に頼っていいですよと言ってしまった。
「大嫌いな芸人だが腕は確かだ」
こんなこと、普通はありません。大嫌いな時点で楽しめなくなる。
嫌って欲しがっている人間は、面白さの追求を捨てているのだ。
「勇気をもって政権批判をしている」と村本を評価する向きがある。
そう思いたいのはわかるが、この男に関しては違うと思う。
村本がやっているのは「安倍政権を支持してきた多数派」をまず切り分け、自分の属する側である「まともな少数派」から怒りをぶつけること。
勝手に多数派に組み込まれる中には、消極的政権支持派も多いわけである。
日々現実に向き合って生きてきているのに、左翼でないことを理由にいきなり危険球を投げつけられる。
村本を支持するのは、いよいよ左に寄り切った人か、気持ち的にアナーキーな部分を持っている人だけである。
お笑いを純粋に楽しむという人も含まれるかもしれないが、先に述べたとおりこの存在はやや疑問。
村本がなぜこういうスタンスでいるか。答えは簡単。
芸人仲間からつまはじきにされているからだ。
???
過激な言動をするからつまはじきに合うんでしょ? 順序が違うのでは?
いえ、そうなのです。これは断言します。
性格面と、顔ににじみ出る根性の悪さに伴う、芸人仲間とのトラブルが最初にある。
つまはじきにされていることを正当化するためには、孤高を気取るしかなくなる。
「人が言えないことを言うからつまはじきに合うのだ」というフィクションを、後付けで作り出すしかなかった。これが真実だろう。
これに、左寄りの言動がピタッとはまった。だからそれを採用している。深い考えなど最初からない。
本人がどこまで自覚しているかは別にして、これが正解。
「メッセージ性の強さにより、忖度する世間で出番を失っている」というフィクションを、勝手に感じてもらえるのもメリット。
村本に非常に近い言動を日ごろからしている立川談四楼は、ちっとも村本にコメントしない。
反政府思想でつながるのが大好きなポジションの人にしては、珍しいことだ。
業界にも秩序があり、左翼文化人にだって秩序があるということ。
そこからも外れてしまう、根っからの孤高芸人なのだ。
「漫才」ができないのも当然。ロボット相方がいればいい。
さて、村本に一日掛けてしまったが、全部前振りです。
明日は落語界の話題につながります。