ウーマン村本を、「人間、孤立すると本当にしたいこともできなくなる」というスタンスで斬ってみた。
ただ私丁稚定吉は、円満な人格により社会で成功している立場からこんなことを言っているわけではない。むしろ、孤立している側の人間として、孤立の弊害を言ってみたのだ。
本当に輪の中心にいる人は、精神的に満たされているので孤立芸人を悪く言うことはない。立川談志など、破滅型芸人が大好きだったりしたのだ。
本当にハブられている人が、その状態を納得させたい人間心理、痛いほどわかる。
だが残念ながら、本当に嫌われる芸人が輝ける場所は芸能界にない。村本はあのスタイルでの成功を期待しているからこそ、痛々しさがよりつのるわけだ。
クロちゃんとか、「嫌われていることになっている」芸人とは大違い。トイレ不倫の渡部も、やったこと自体ではなく、態度の悪さの積み重ねが、復帰を困難にしている。
孤高の芸人になってはおしまい。決してこんなポジション、目指すものではない。
孤高芸人は、水が低いところに流れるように、なるべくしてそうなっただけ。だから実は、そうならないよう努力してもダメかもしれない。
以前読んだコラム記事を思い出した。
生活のため覚悟を決めてAV女優になっても、撮影現場で配慮のない女性に次の仕事は来ないという。
どんなメディアであってもそこに制作者がいる限り、「また一緒に仕事をしたい」と思ってもらわないとなにも始まらないのだ。
AVのスカウト的な立場の人がそうした事実を志願者に告げると、「それじゃ他の世界と同じじゃないですか!」と悲鳴を上げられるという。同じなんだよ。
さて落語界についてだ。
落語はそもそもひとり芸。孤高のスタイルに親和性が高そうに思えるかもしれない。
修業を終えた後はひとりでやっていけそうに思えるが、実のところ、まったくそうでない業界。
噺家のホームグラウンドである寄席は、集団芸を見せる場所。
主任の師匠をメインディッシュにして、演者全員がフルコースを構成する。
実際に通っていながらこの構造がまるでわかっていないファンも多いのだが、これは本当にそうなのだ。
この観点に着目して見ていれば、客が疲れそうなときに軽くやる演者の腕が、すぐわかるようになる。
寄席の外もしかり。独演会ばかりやっていくことはできない。仲間の存在を大前提にする業界。
三遊亭萬橘師は、そもそも落語界こそ、最初からチームワークに向いた人が入ってくる業界なのだと言っている。
噺家の数も非常に多いので、中には集団芸になじめない人もいるだろう。
あるいは、個性が強すぎ周りから浮いてしまうか。
こういう人たちはやがて、孤高の噺家となっていく。
前座修業中は寄席に詰めないとならないが、二ツ目になったら自由。
現在は、年功序列で誰でも真打になれる時代。それが悪いとはまったく思わないものの、真打の披露目が落語界との最後の接点なんて人もいるはず。
本業を別に持ち、たまに噺家らしいことをする、そんな人も中にいる。
現代は個性を尊重される社会である。人と群れたくない、協力できないのも個性。そう認めてもらえるところまでは幸い。
だが、孤高の噺家が輝けるステージなど、どこにもない。
噺家を志したことはないが、落語の世界を知るに連れ、私には無理な社会であることを常に思い知らされている。
芸を磨く以前の段階で、挫折してしまうだろう。
間違って入門できたとしても、ベルトコンベアに載せられはみ出しポジションに落ちていくに違いない。
そういう人間にとっては、孤高芸人の心情のほうがわかる気がする。
だが、私が子供の頃から聴いて楽しんでいた落語の世界は、孤高のフィルターを通しては、決して味わうことができない。
落語ファンである以上、輝く世界に目が向くのは必然なのだ。
集団芸を見事にこなす芸人たちに、はるかに魅せられる私。
笑福亭羽光さんがNHK新人落語大賞を獲ったことで、芸協のユニット「成金」はすごかったのだと改めて思い知らされる。
集団活動により、個々のパワーを足しただけでない新たな力が生まれるのである。
新作ユニットとして一世風靡したSWAもそうだ。
SWAのメンバーは、今もみな、変わらず集団芸に励んでいる。
実際には、途中でどこかに行ってしまった講談師のメンバーがいたのだが。最も集団の力を必要とする場に、最も集団芸になじまない人がいたわけだ。