明けましておめでとうございます。
2020年、コロナでネタがなくなり、3年8か月続けた毎日更新をやめてしまった。
それでも、その後もまあまあ毎日出してますね。本当に休んだのは計10日ぐらいです。
そして、おかげさまでアクセスがずいぶん増えました。
2020年1月時点では、1日平均70ぐらい。今は倍。
まあ、落語ブログ界の栄枯盛衰も目にしております。手を抜くとあっという間に忘れられますので、引き続き頑張ってまいります。
さて、12月28日の新宿末広亭夜席、千秋楽の模様を続けます。
伊藤夢葉先生の楽しく適当なマジックを挟み、またしても地味なベテラン師匠シリーズ、3席目。
古今亭菊寿師の小言念仏は、かなり面白かった。
面白いといっても、このすこぶる変わったリズム落語を、丁寧に進めるだけである。それでいいのだ。
隠居を中心にした、大家族のありようが念仏の向こうに見えてきて、実にいいムード。
隠居も小言のいい通しではあるが、孫からお菓子を分けてもらったり、赤ん坊と遊んでやったりしている好々爺。
人のよさが見える分、小三治念仏よりずっといいと思った。
末広亭らしい、渋い顔付けに感嘆しつつ、いったんここで空気がガラっと変わる。
仲入りは爆笑王、四代目三遊亭圓歌師である。登場していきなり「どじょうやー」と一発叫んでツカミばっちり。
圓歌師といえば楽しい漫談に定評のある人であるが、最近は落語の演目を利用して漫談を語っている。
その楽しい枠組みが、やかん。
現在、「三遊亭圓歌 やかん」で検索すると、ついに私の記事がトップに立つようになった。
嬉しいのだが、こんなことを書いたとたん、抜いた記事のほうをクリックする人がいて、また逆転するかもしれない。まあ、気にしない。
今日の記事をアップしたあと、3日後の検索結果は果たしてどうなるかな? カニバリゼーション(共食い)が生じて、順位が下がる可能性も十分ある。
検索でヒットする記事は、NHK日本の話芸をレビューしたもの。
圓歌師の漫談を何度聴いても飽きることのないのと同様、師のやかんを再度聴いてもなんら問題なし。
古典落語のやかんと、枠組みは共通しているが、根問の共通点は一切なく、すべて圓歌師のオリジナル。
愚者愚者と呼ばれても、喜ぶ男。名前は出ない。
普通には八っつぁんなのであるが、先生に呼ばれる名前は愚者か、ドスケビッチ・ポルノスキー・フルチンコのどちらかである。
先生とドスケビッチは、対立する必要などゼロ。どちらも漫談の大家である圓歌師の楽しい分身である。
落語の形式を採り、登場人物にボケ、ツッコミが生まれたことで、かつての漫談がさらにパワーアップしている。
魚の由来などはまったく訊かないドスケビッチ。
キリンの首がなぜ長いか。人間の生肉が炎天下でなぜ腐らないか。
そして師が漫談で語っていた、「天」という字の由来など。
漫談と同様、時間はいくらでも調整可能。
1か所うっかり。「亀は万年」の説明をしてしまう先生。先に出た寿限無にツいてる。
圓歌師もネタ帳は見てるはずだが、寿限無なんてそうそう掛からないから油断したのでしょう。
それでも、「鶴は『かめま千年』」「亀は『かめ万年』」など聴けばやはり爆笑。
なんのネタだったか、古典落語の一席を紐解く先生、「わしは古典落語はできるんだ」。
キリのいいところで「本題に入ります」とドスケビッチ。「やかんはなぜやかんと言うんですか」。
先生のほうも、「ようやく来たか愚者。いつ来るかと思っておった」。
漫談の延長線上にある芸だが、お約束ごとをひっくり返す総合芸能である。メタ構造まで入っている。
やかんの由来を説明したあと(那須与一など、当然のように出てこない)、まだまだQ&Aは続く。
どこで切ってもいいのだが、末広亭とはいえ仲入りは少々時間が長い。客のほうも、徐々に笑い声が小さくなっていった。
しかしそこからが圓歌師の真骨頂。韓国語講座でもう一度盛り上げてからフィニッシュ。
「寂しい夜は自分でコスミダ」と下ネタを振り、扇子でおでこをたたく先生、というか圓歌師。
最高です。圓歌師こそ、至高の寄席芸人。
もちろん客はゲラゲラ笑っていればいい。だが落語ファンならせっかくだから、さらにその向こうに見え隠れする、恐ろしいほど高度な話芸までをも堪能したい。