不定期連載で「オチの分類」というものを続けている。古くからある、オチ(サゲ)の分類について私なりに迫ってみたもの。
以前、既存のオチ分類を全部リセットして新たな分類をこしらえてみた。今度は、既存の分類に戻ってみたのだ。
落語のオチを分類し、整理する必要などそもそもあるのかと出発点から疑問を抱きつつ、それでも落語について考えるのは楽しいものだ。
考え落ち、地口落ち、とたん落ち、ぶっつけ落ち、逆さ落ち、間抜け落ちと見てきたところ。
この後続くなら、「トントン落ち」や「廻り落ち」などを取り上げることになるであろう。それから、既存の落語のオチ分類にないが、「シャレ落ち」という概念が不可欠なのではないかと思っている。
だが、逆さ落ちあたりで少々引っ掛かってきた。オチの分類よりも、優先すべき分類があるのではないかと。
逆さ落ちというのは、「さかさまの価値観をぶつけて終わる」という概念と私なりに理解している。
だが、価値観を裏返す概念は、なにもオチのワンフレーズだけに現れるわけではない。
典型例として、「錦の袈裟」を取り上げた。錦の袈裟のオチは「袈裟返してくれないとお寺しくじっちゃう」であるが、ここに噺のテーマはない。
錦の袈裟は、ボーッとしている与太郎がお殿さま扱いされる、価値観の逆転こそが面白い。それを、フレーズだけ取り上げて「今朝と袈裟が掛かってるから地口落ち」などとやるのは、いささか不毛。
この疑問について、自分を納得させないと先に進めない。
というわけで、落語を締めくくるワンフレーズではなく、噺そのものが価値観を裏返すくくりを見てみたいと思う。
代表例として「騙し」がテーマの落語を取り上げることを思いついた。騙しもまた、価値観の逆転である。
最終的に、「オチの分類」と同様に、なにか共通項でくくれればいいなと思っている。
人を騙すのは楽しいもの。
オレオレ詐欺や国際ロマンス詐欺がなくならないのは、騙す側が、騙しに喜びを感じているからだと私は理解している。
詐欺師は、人を騙すのが根本的に好きなのだと思う。その思想を許しはしないが、落語にすれば確かに楽しくなる。
騙しの噺の例。
【狐】
- 王子の狐
- 紋三郎稲荷
- 七度狐
【廓など】
- 明烏
- 文違い
- 三枚起請
- 付き馬
- お見立て
- 辻占茶屋
- 居残り佐平次
- 山崎屋
- 星野屋
- 転宅
【商売】
- 壺算
- 時そば
【その他】
- 三軒長屋
- 夢金
- 岸柳島
- 疝気の虫
- 干物箱
- 蔵前駕籠
- 蜘蛛駕籠
- のめる
- 夏泥
- 庖丁
- 大山詣り
- 看板のピン
- 禁酒番屋
まだあると思う。マクラの小噺まで含めると「軽業」や「一眼国」なども。
狐と廓が多い印象。そしてそれ以外に、騙しといえばこれ、の壺算と時そば。
おおむね、人を騙すのは楽しいものだ。弥次郎は誰も騙されないので含めなかったが、ホラ噺もまた楽しいもの。
疝気の虫は、虫を騙す。死神はあまり騙してない気がする。
そして、騙されるのもまた楽しい。上方落語の「東の旅」の一部である七度狐なんて、執念深い狐に繰り返し騙される噺。
女郎に騙されるのも、意外と楽しい。みんな騙されるために通う。
騙される側にペーソスがにじみ出るのは文違いで、これだけ異彩を放っている。
それから転宅もおおむね楽しいが、ちょっとペーソス。
並べてみると、いずれも「日常の価値観をひっくり返す」噺だといえる。
落語というもの、商人の日常から、狐狸妖怪の出てくるミラクルワールドまでがシームレス。たまにこのことに、不思議な感触を抱くことがある。
だが、並べてみるとよくわかる。人に騙されるのも、狐に化かされるのも、常識を裏返す点では同じなのだ。
まあ、単に昔は狐狸妖怪も日常だっただけかもしれないけど。
王子の狐では、自分を騙そうとしたに違いない狐を先んじて騙すが、そこで終わらない。真の詐欺師ではないので、今度は祟りを恐れて狐に謝りにいく。
だが謝罪は受け入れられたのかどうか。この噺は、価値観を二度ひっくり返しているのだ。
落語以外の世間の物語は、逆転また逆転の展開を見せつつ、そこに価値観の逆転という要素はさほどない気がする。
落語では、星野屋はこんなタイプの噺で、そのせいかやや珍しい展開に映る。
オチの分類でいうと、王子の狐も紋三郎稲荷も、「逆さ落ち」っぽい。
だが、ちょっと違う気がする。当てはまらないというのではなく、最後のフレーズだけでは「逆さ」を導く思想そのものが切り分けられない。
オチの分類より、このふたつの噺に見られる逆さまの視点こそ、分類すべきものに思うのだ。
まだまだ漠然としているのだが、書きながらまとめ上げていきます。
続きます。