亀戸梅屋敷寄席20(下・三遊亭好楽「ぞろぞろ」後半)

好楽師の長いマクラは、中身が詰まっていて実に楽しい。
本編がなんの噺なのかは、結局直前までわからなかった。
強情灸でも、佃祭りでもないのはわかったが、偽物の信心を語るので、「小言念仏」なのかとは一瞬思った。さすがにトリで出す噺じゃなさそう。

好楽師からは以前、「親子酒」を聴いた。
これが、いったい誰から(どこから)来ているかわからない内容。恐らくご自身でこしらえ上げたのだろう。
一般的には、噺の進化とは、余分なものがそぎ落とされていくもの。小噺からプロトタイプを逆に作り上げたような作品にいたく感心したものだ。
ぞろぞろもまた、このようにして練り上げた作品なのかもしれない。
ぞろぞろは、浅草の北が舞台として設定されてはいるけど、地名の特定性はごく薄い。どこでも成り立つ噺として演じられる。
だが実在する「太郎稲荷」に具体的に迫る好楽師。今でもひっそりとあるお社である。後で調べた。
かつて栄えた太郎稲荷とその周辺の商店街が、今や流行らなくなってしまったという具体的な歴史を作り上げるのである。
どこまで史実にのっとっているのかはわからないけど。噺自体上方ダネだし。

ぞろぞろは、噺全体を覆うとぼけたムードが楽しい噺。だが、どの演者から聴いても、中身はさほど変わりはない。
江戸郊外ののんびりした雰囲気が出ていると成功という感じ。
茶店兼荒物屋の爺さんが、婆さんに勧められてお稲荷さんをちゃんと信心してみるという流れが基本。
だが、こういう展開だと、好楽師の噺は成り立たない。
この爺さんと婆さんは、昔から信心深く、どんどんボロくなっていくお稲荷様をちゃんと拝み続けてきている。
そんなふたりに、ちょっとした奇跡が起こる。抜いても抜いてもなくならないわらじができて、茶店は繁昌し、お稲荷さまにも寄付金が積みあがる。
意外と忘れがちだが、お稲荷さま自体も元通りになるところは大事。綺麗になるかどうかではなく、人々の信心が戻ってきたところが。

そして床屋。
一般的には、暇な床屋は茶店の向かいにある。茶店が急に繁昌して床屋が驚くのだ。
だがそうではない。床屋は、ずっと離れたところにあり、暇を持て余して自分のヒゲを抜いている親父は、茶店の大盛況を知らない。
噂を聴いた床屋は、賑わう茶店を実地検分して、初めてお稲荷さまにお百度詣りに出向く決意をするのである。
この床屋も、腕には自信があって、かつてはいろんな場所に呼ばれた過去があるのだそうだ。
「あとからひげがぞろぞろ」というサゲは、実に罪のないもの。ナンセンス色が強い。
ここに教訓を感じることなど、普段はない。神さまの勘違い、あるいはいたずらだと解釈する。
だが好楽師、ここに信心の問題を盛り込みたかったらしい。床屋の、取ってつけた信心を風刺してみせるのである。
この床屋、「あの茶店と同じようなご利益がありますように」と願っている。
本当に同じご利益になったという皮肉なオチ。

だが決して、本来軽い噺を、説法くさく教訓噺に変えた、そんなムードの一席でもなかった。そんなことをしたら大失敗だと思う。
好楽師は、どこまで行っても軽い。
「似非信心の床屋が、神さまに笑われた」そんな話を、実に楽しく描いてみせるのである。

人情噺に負けないズシリ感、それと裏腹な、ふわふわした空気。
この高座の一端でもおわかりいただければ嬉しい限りです。
こんな落語をやる人は、他にいない。
他にいないところが好楽師の素晴らしさであり、同時に新たなファンが入ってきづらい障壁にもなっているかもしれない。
初心者も上級者も、爆笑するか、泣くか、どちらかに振り切ったときにその噺家を高く評価する傾向があったりして。
中間に「それほど面白くもないし、涙も出ない」領域があるかのように思っているのでは。そこにお宝があるのに。

昨年、おかみさんを亡くされた好楽師。これはしばらく公表されなかった。
現在はしのぶ亭にひとり暮らしなのだろうか。
だが師には、多くの弟子がいる。前座はみな二ツ目になったものの、常に賑やかなのだろう、きっと。
御年74歳。まだまだ活躍できる人である。それも本業のほうで。

帰りにらっ好さんが「CD発売中です」と声を上げていたが、それはスルーして帰途に。
それにしてもいい高座でした。

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作成者: でっち定吉

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