更新時刻がバラバラですみません。3月は結局、2日休んでいます。
ネタが向うからやってきた。
NHK日本の話芸に、柳家喬太郎師登場。今回は古典落語で「紙入れ」。
喬太郎師自体はこの番組の常連であるが、その高座は決して、日本の話芸向きには思えない。
この番組、上方落語については思いのほか攻めているが、東京収録である東京落語会の高座は、おおむね固い。
とはいえ当代随一の実力者には、向き不向きなど関係ないのだろう。
昨年だったら、この演目出せなかったかもしれないな。
立川志らく夫人酒井莉加のことを、私はカミーレ夫人と呼んでいる。
昨年、報道の直後に亀戸の落語会に出た古今亭志ん吉さんは、予定の紙入れを厩火事に変更していた。
ところで「紙入れ」、個人的にもともとあまり好きな噺じゃない。
間男というテーマ自体は、別に嫌ってはいない。上方の「茶漬間男」なんてネタは好きだ。
「富士詣り」なんてごくマイナーな噺に、よそのかみさんにちょっかい出すシーンがあり、これはかなり好き。
結局紙入れ、そこそこいいものは聴いているが、とびきりいいものは聴いていない気がする。喬太郎師の、過去の音源も含めてだ。
テーマに不快感を持つ人は、間違いなくいるはずだ。
実際先代桂文治は、客が不快になるからと弟子たちに禁じていたという。
だから当代の文治師も、紙入れはやらない。
風呂敷という噺も、もともとは間男がテーマだった。これも文治は禁じていたそうで。
風呂敷を、「亭主の勘違い」というテーマに徐々にスライドしていった背景には、紙入れと同様、客の不快スイッチの発動回避が目的にあったはず。
今でも古今亭菊志ん師など、本当に間男をテーマに風呂敷を掛けている。
三遊亭好楽師の風呂敷も、露骨ではないが、かみさんにかなりの隙のある演出だった。
個人的にはテーマに不快感がないのに、なぜ紙入れが好きじゃないのか、自分でもよくわからない。
「見つかりましたか」「読みましたか」のあたり、不自然で全然好きじゃない。だが、部分のことではなくて。
結局、明るさに欠けている噺なのだと思う。
では、思い切ってハネてやったらどうなのだろう。喬太郎師の新たな紙入れに、これを感じた次第。
なにしろ、別撮りの冒頭あいさつから、羽織を被って「どーもくんです」と遊んでいるのだ。
コロナ禍の収録であり、世を明るくする使命感に燃える、キョン師の姿がそこにある。
ちなみに、30分の紙入れにおける、その構造に最初に触れておきたい。
極めてユニークなのだ。
- 別撮りの冒頭(ギャグ入り)
- コロナの話題
- 唐突に入るオリジナル小噺「濃厚接触」
- 親子は一世、夫婦は二世
- 不倫と浮気に関する独自考察
- 間男は七両二分と値が決まり(間男小噺)
- 知らぬは亭主ばかりなり(豆腐屋と与太郎の小噺)
- 間男は亭主のほうが先に惚れ
- 紙入れ本編(13分)
喬太郎師、大ネタの際はいきなり噺に入ることも普通だが、だいたいはマクラに工夫を凝らす。
コロナの話題から。本編とはまったくつながらない。
普通は多少なりとも、本ネタに関連するネタを先に振るもんだが。この師匠の場合は関連のない話は通常運転。
「ソーシャルディスタンス」のディスタンスといえば星空でしょ。とても喬太郎師っぽいクスグリ。
そして唐突に小噺に入る。聴いてるほうもきょとんとする。
実は「濃厚接触」の言葉のいわれだと気づいて、爆笑。このウソ噺に拍手まで飛ぶ。
ウケておきながら、「こういう小噺で拍手をもらうと自分がみじめ」だというキョン師。
親子は一世と、紙入れに付随するマクラに改めて入る。
しかし、また脱線して、不倫と浮気という言葉のイメージに関する、独自考察に入る。
奥さまどうしの世間話を、芝居のように語る。こんな芝居を落語でやれるのは、喬太郎師だけだろう。
そしてさらに別のマクラ。これはややマイナーだが古典の小噺。間男を値切って3両で示談にする話。
ストーリーに真面目に引き込んでおいて、オチでどっとウケる見事なテク。
さらに「知らぬは亭主ばかりなり」豆腐屋のおかみさんのマクラも振る。
これはまあ、極めて有名なマクラ。
だが、語る方法論が、やはり芝居に準拠している。
特にギャグは入らないのに、とても楽しい。この楽しさは、全体を覆う軽さ、明るさに基づく。
与太郎の造形も極めてユニーク。鼻から息吸い込んで笑う与太さん。
若手がこの手法を真似したら、大ケガすると思う。
有名なマクラは、淡々と語ったほうが絶対にいいと思うのだが、ここにすばらしい例外がいる。