新宿末広亭3 その2(初音家左橋「竹の水仙」)

緊急事態宣言開始の直前、24日の新宿末広亭(末廣亭)を通しで楽しんできたところ。
昼も夜も、そこそこの入場があった。
場内食べ物はNGになっているので、直前に吉野家のミニ牛丼を腹に収めてから。おかげで夜トリまで持った。

25日以降も、寄席4場は「社会生活の維持に必要なもの」として続行が決まっている。また市松模様の着席に戻るようだが。
「社会生活の維持」うんぬんは、都の要請にあった文言らしい。つまり寄席は要請の例外なんですよと。
いい悪いは論じないが、私の好きな東京の寄席というところ、やはりスゴい。歴史が違うし、胆が据わってるわ。
お上との関係も、一筋縄ではいかない。
この点、上方落語協会は早々に開催断念。協会員の窮状を府に訴えていた団体だ。お上に従うほうが筋が通っていることになる。

オリンピック反対派のほうが、寄席の継続をもてはやしていそう。
こうなるともう、理屈の上ではなにがなんだかわからない。ただ、世相の感覚は、よくわかる。
政権交代、ありそうだな。

ひとつだけ寄席に意見。開催の是非ではない。
コロナ時代に現金に触れたくない。キャッシュレスは寄席にも導入して欲しい。
きょうび寄席ぐらいだよ現金オンリーは。「会計が手間」「お客さんに迷惑」などは、よそが対応している以上、理由として顧みられる余地はない。

橘家圓太郎「化け物使い」

宣言前日、妙にわくわくする末広亭の模様に戻ります。
昨日取り上げた、橘家圓太郎師の「化け物使い」は、振り返ってつくづく沁みる。だからおかわり。
滑稽噺の骨格に、しみじみ人情が漂う。
人使いに無駄のある隠居と、なぜか気心が通じた働き者との心の交流が、化け物屋敷への引越しに伴って突然の終了を迎える。
別れ際に、主従は互いの心の交流を確認する。3年間とはいえ、長年連れ添った夫婦のような情が通じているのだ。
ひとりになった隠居に、一つ目小僧(実はたぬき)がやってくる。隠居は一つ目を(悪気なく)こき使うが、結局交流には至らない。
という、非常に深い噺。

圓太郎師は、ヒザ前でもあまり気を遣わず普通の落語をやる人だという印象。
でも、普通にやる一席が、ヒザ前にも向いているということはある。

昼席の高座返しは、一之輔師の3番弟子、ボールドヘッドのいっ休さん。京大出。

そういえば、アクリル板がついた末広亭は初めて。客席によっては光が映り込むので、真ん中辺に座ったほうがいいかも。あるいは角度の付いた桟敷席か。
客よりも、演者がやりにくいみたい。自分の姿が映るから。
でもそのぐらいは仕方ない。合わせてやらないと。

初音家左橋「竹の水仙」

昼席のトリは初音家左橋師。
おかげさまで、巣鴨スタジオフォーで結構聴かせていただいている師匠。古今亭・金原亭の中でも、この師匠は芸風が微妙に違う。
その巣鴨で聴いた、「竹の水仙」だったのでやや落胆。しかしながら、二度目でも実にすばらしい内容だった。
とはいえ、同じことを書いても仕方ないのでリンクを張っておく

甚五郎ものや「抜け雀」は、無銭飲食の被害者である主人の描き方に着目して聴いている。
主人がほぼ怒っていないものが私は好き。
当然怒るべきシチュエーションにおいて、なぜかそれほど怒らないほうが、ぐっと楽しいメリハリになる。
左橋師の竹の水仙は、浪曲から来ているものか、宿の主人が非常に気位が高い。設定からしてボロ宿でなく、脇本宿なのだ。
一見さんお断りの宿なので、ちょっと嫌な奴という装い。
なのに、空っけつの甚五郎にそれほど怒らない。こういう点が、落語だなあと嬉しくなるのです。
竹の水仙を買い求めに来る、細川さまの家臣が土下座するのを、ざまあみろと描写しないのもいい。
わかりやすい感情の起伏に頼らないのがいいところ。

こういう落語を覚えたい若手は、感情の起伏をいかに抑えるか、そこに留意するときっといいだろう。
落語の面白さが、起伏のなさに反比例してにじみ出してくると思う。
・・・プロにアドバイスするなよ。
思っている以上、お許しあれ。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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