新ブログになった最初のネタとして、二ツ目の寄席、神田連雀亭の模様を3日間お届けした。
これで自分自身満足したので、今度はちょっと変化球を。
今日は文字数が日ごろの倍以上。2日に分ける内容じゃないから出してしまう。
落語とやや距離があるネタだが、無関係でもないのだ。
タイトル通り「今さら」ではあるのだが、事件直後から頭にはあったテーマ。
しばしば記していてアクセスも多い、「嫌われる芸人・噺家」というテーマとも、ちゃんとつなげる。
たまたま聴いたラジオに刺激を受けて、1年前にこんな記事を書いた。
「利他の精神」を通して、談志と志ん朝の「文七元結」を考える、深いテーマ。
ラジオ番組では、映画「こんな夜更けにバナナかよ」も取り上げられていた。
主要登場人物を演じた三浦春馬が自殺したのは、記事を書いた後のこと。
映画を一度観たいと思っていたら、今年になって金曜ロードショーで放映された。
映画を録画し、まだ観ていなかったそのころ、ご存じ「JR乗車拒否騒動」が発生した。
乗車拒否は極めて一方的な呼び方なので、「来宮の変」とでも呼びたいが。
伊是名夏子という、常時電動車椅子に乗っている障害者の起こした騒ぎである。
今度の都議選と、総選挙で野党に入れるつもりの私(オリンピックは無関係)だが、基本的には左翼嫌い。
といって個人の思想ひとつずつまで、逐一嫌ったりしてはいない。
一昨日偶然に名を出した池澤夏樹など、左寄りにも好きな人は大勢いる。小説家なら、他に佐々木譲であるとか。
そんなわけで私、来宮の変のニュースを見て、たちどころに拒否反応を覚えたりはしなかった。
最初から社民党の人であることも、拒否されてマスコミをすぐ呼んだその手段も知ったうえで。
嫌いな思想を持った人も、自分のやり方で闘う権利はある。「闘う」という目的意識から事象を見たとき、「やったな」と思ったのも、また確かなのだ。
行動を起こすことで、確かに世の中が変わっていく、そのさまも見てきた。世間を動かす、その行動自体への好き嫌いは、わりとどうでもいい話。
この時点で、好意的とまでは言わないものの、ニュートラルに事件の一報に触れた。
この感覚があるからこそ、事件について書いてもいいなと思った次第。
障害者は、健常者に常にペコペコして生きていかねばならないか?
そうしなくていい世の中を作りたい、その意識はわかる。そのために障害者自らが闘う姿勢もまた。
だが当初確かに感じたポジティブなイメージは、実情を知るに連れ、急速に萎んでいく。
騒動のご本人も認めたとおり、この事件は偶発的ではなく、世間を騒がせることを狙って仕掛けたものだった。
善良な市民であるJR職員に被害を与えたという点において、まさしくテロリズム。
テロという言葉はキツい。だが、間違いなく左翼革命の一種ではある。歴史的にはたまに成功することもある。
もやもやしてきたこの時点で、「こんな夜更けにバナナかよ」を観る必要があると思った。
伊是名夏子だって、間違いなく映画を見ているだろう。映画の内容が、彼女の思想と行動に与えた影響だってあるはず。
映画の主人公は、筋ジストロフィーで24時間介護が必要なのに、極めてわがままな人。
映画について咀嚼してからでないと、来宮の変については語れない。
映画は素晴らしい内容だった。
大泉洋演じる障害者の主人公は、極めて強い意志を持った人。
自分の人生を主体的にどう生き抜くか、常に考え抜いている。
その目的のためには、周りの人を振り回すことを気にしない。善意のボランティアに無理難題を押し付ける。
映画を見ながら、深夜弟子に向かって「コロッケが食いたい。買ってこい」と言った談志を思い出したりなんかして。
談志と違うのは、周りにいる人はボランティア。別に弟子入りしたわけではない。嫌ならいつでも辞めていい。
高畑充希の女主人公が傲慢さに怒り、こんなの辞めてやるというと、替りはいくらでもいるよとうそぶく主人公。
だがこの傲慢な主人公、極めて魅力的な人物でもある。
極めてユーモラスであり、そして世話焼きでもある。
女主人公にプロポーズしておきながら、結局は、三浦春馬とくっつけることに尽力する。
結局、周辺の人を幸せにする能力を持った人。
実は、周りに魅力的に映ることを十分自覚しているからこそ、王様のように振る舞うこともできるのだ。
映画を観てよかった。先の記事に書いた、中島先生の問題意識も含めて。
伊是名夏子との違いがよく理解できた。
この時点で、伊是名への批判に躊躇がなくなった。
伊是名は、映画から「声を上げ世の中を変える姿勢」だけを学んでしまったのではないだろうか。
同じく世間を騒がしても、常にタフな乙武洋匡と比較するのもいい。
ユーモア感覚を持たず、人間的魅力のない障害者の周りにやってくるのは、なんらかの義務感で集まった人ばかり。
こうなると、自分の人生に対して闘う手法も、おのずから変わってくる。
自己の周りにムーヴメントを起こしていくのではなく、仮想の敵を見つけて因縁をつけるやり方になるのだ。
マイノリティ全体が楽に生きていくため、そんなやり方で自分が嫌われたって声を上げるべきという考え。
一理はある。「嫌われ者には権利がない」になってしまっては、確かに仕組みとしていけない。
社民党がこのたびの事件に基づき、後日JRに抗議したのに怒る人は多い。
だが、抗議は当然のことだ。仮想の敵を見つけて因縁をつける作戦である以上、ここで日和るわけにはいかない。
主体がどこにあろうが、一度始めたテロは完遂しなければ。
そもそも、解体された国鉄労組につながっていた旧社会党からすると、JRは不俱戴天の仇だし。
それはそうと、「一連の事象に二度腹を立てない」のが私のモットー。
この典型例が、極悪非道の犯罪者が刑事裁判で見せる悪い態度。そんなことに二度目の怒りをぶつけないほうがいい。
テロそのものに、一度怒れば十分と思う。
それにしても左翼というもの、ユーモアとは徹底して無縁だ。
権力者へをおちょくる際にだけ反応を示すのだが、そこに漂う「笑い」の質については極めて無頓着。
いじった人を仲間だと思うことだけで、喜ぶ人が多い。
当ブログで「左翼にもユーモアを」という、落語とあまり関係ない記事を書いた。そうしたら、「左翼 ユーモア」の検索で、現在トップに出るようになっている。
最近の当ブログ(引っ越し前のほう)の人気が高まってきた結果とはいえ、正直驚いた。
左翼とユーモアとが、世間では極めて珍しい組み合わせになるためらしい。
思想の左右と関係なく、ユーモアは常に大事だと思いますよ。
ただユーモアのセンスは意外と危険。才能の有無により、人に露骨な序列がつくからである。
ユーモアセンスを持たないがゆえに、世間で序列の低い人も保護される必要があるのは確かだ。
さて、降りる必要性のない無人駅に強引に降りるテロにより、JRの業務を混乱させ、世間を怒らせた伊是名夏子。
「こんな夜更けにバナナかよ」の主人公にあって伊是名にないのは、「人に愛されることで周りを巻き込む」という手段。
重ねて言うが、その手段がないからといって、ただちに非難するわけではない。これは才能であって、真似はできない。
「手伝ってくれたJR職員に感謝もない」という世間の非難も、私に言わせれば「二度目の怒り」であって、改めて強調することでもない。
確かに、伊是名の希望が実現し、いつでも誰でも無人駅に思い立って降りられるシステムが重要なら、感謝する筋合いはないわけだ。
人の態度として、どうかは知らないが。
池田信夫は、このような活動は結果的に公共交通が負担に耐えられないことで、無人駅の廃止を招き、誰にとっても不幸な社会になると書いている。
実際にパフォーマンスをおこなった障害者により、バニラエアの大阪⇔奄美便が廃止された例を挙げて。
こういう批判の仕方は卑怯と思う。「かもしれない」をたくさん集めても、可能性に過ぎない。
笑福亭たまが、かつて落語のサイト運営者に「演者の批判を載せるのは落語界の発展を阻害するからあなたにも損になる」と言い放ったエピソードを思い出す。
「かもしれない」程度では、人権に優先し得ない。
落語のブログであることを忘れないよう、ちょいちょいこんなのを挟みつつ。
こうしてみると、伊是名の心情に精一杯迫るなら、擁護できなくはない。
ただし、それもここまでだ。
起こしたテロ行為よりも、その後の伊是名を見て私は愕然とした。
なんと、世間の誹謗中傷に対して泣き言だ。
「誹謗中傷」だというその中身は、まっとうな批判のほうが多いように思うが。
単に、批判そのものに不慣れで、堪えているらしい。
なんと情けないテロリスト。世間を騒がせるだけ騒がせたうえで障害者の地位向上を狙おうと、JRを巻き込んでおいての泣き言か。
これじゃバカッターレベルだ。
認識の甘さが招いたとはいえ、目的は世間に障害者の苦難を知ってもらうことだったはず。
世間が自分のことを支持してくれて、JRが悪者になるだろう、その目論見は大失敗に終わった。世間の支持が得られなかったからだ。
伊是名にとって世間は敵。それが明らか。
敵に向かって、泣き言を言ったところでどうなる?
「世間を騒がせたことについて謝る」というのは、ひとつ選択肢としてあるだろう。いい結果になるかどうかはわからないが。
ともかく、泣き言はあり得ない。
世間を教化しようとちょっとつついてみたら、その世間が反撃してきた。その途端「私は弱い。みんなにいじめられている。中傷はやめなさい」。
このWスタンダードは通らない。
私の嫌いな左翼芸能人たちは、今回の件に一切スルー。
村本なんか、フォローしてもよさそうだがな。世間から自己がどう見られているのか、勝手に作り上げたフィクションがそっくりだ。
ただ今回、伊是名にも貢献があった。
障害者だからといって、また確信犯だからといって、無条件に見逃してもらえるわけではないということである。
世間は実は成熟していて、障害者を平等に扱うすべを覚えたのである。