立川談志の文七元結と利他の精神

コロナ禍の前から在宅ワーク。仕事をしながらラジオを聴くのは私の習慣のひとつ。
radikoプレミアムに入っているおかげで、落語の番組も好きなときに聴く。
いつものように「落語」のキーワードでradikoを検索すると、珍しい番組が目についた。
「FUTURES」という、JFN系の番組。月イチらしい。
土曜日の朝5時から1時間。FM東京では流れていない、こんなメディアの隅っこの番組も聴けるのがradikoプレミアム。

パーソナリティは中島岳志。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。
リベラル文化人の代表だろう。TVによく出ているようだが、あいにくワイドショーなど視ないもので。
私からすると、ネットの記事で最近よく見かける人という印象。
落語の面白さとはまったく異なるものの、知的興奮をふんだんに得られる番組であった。

なぜ落語で検索に引っ掛かったのかというと、「文七元結」を通して「利他」を問うというテーマだったから。
文七元結は、まさに利他の精神が充ちている演目。娘も佐野槌のおかみも長兵衛も、みな利他で生きている。
だがこの噺の核心は、左官の長兵衛が、見ず知らずの文七の身投げを止めるため、娘を売った50両をやってしまうくだりにこそある。
それを志ん朝、談志の文七元結を通して考えるという、深いテーマ。
中島氏がインドで関係ない人に荷物を持ってもらった経験や、悪人正機説の親鸞、さらに映画「こんな夜更けにバナナかよ」まで引いてきて、利他を考えるのである。

現在の日本は自己責任論に凝り固まっており、閉塞感に充ちているというのが、中島先生の問題意識。利他はそれを救う命題。
コロナ禍の、この時期のオンエアなのはたまたまなのか? 感染者が社会的な非難を受けているこの時期の。
タイムリーではあるが、これもテーマに普遍性があるからこそだろう。

文七元結の作者である三遊亭圓朝は、田舎者が出張っていた東京の中で、江戸っ子の心意気を残そうとこの噺を作ったのだとされている。
そして志ん朝は長兵衛を、江戸っ子として描く。
江戸っ子である志ん朝が、お店に申しわけなくて死のうとする文七に、「お前正直だな」という共感を覚え、ついに50両をやってしまうという展開。
それはもちろん素晴らしいのだが、中島氏は談志の解釈がいいという。談志のほうが一歩踏み込んでいると評価する。
談志の長兵衛は、死のうとする文七に共感することは一切ない。
「ここでオレが金を出さないと、こいつは死ぬ」。談志の長兵衛は、この関係に耐えられなかったのだ。そもそも、金をやってしまう理由すら、本当には語られない。
吾妻橋の上で、たまたま身投げする奴に出逢ったのが、長兵衛の不幸だったのである。
これこそまさに利他の本質だと中島氏は言う。

若き日の中島氏はインド・デリーでフィールドワークをしていた。
ニューデリーの駅の長い階段を、重い荷物を運ぶ中島氏。30代の男性が、ごく自然に荷物を持ってくれた。
だが深い感謝を伝える中島氏に対し、憮然として立ち去る男性。
誰からもその答は聴いていない中島氏だが、インド思想に答えを見出す。
インドの法「ダルマ」により、男性は当然に手助けをしてくれただけだったのだろうと。男性は当然すべきことをしたのであり、感謝を求める意思などかけらもなかったのだ。
談志の文七元結から、利他の本質でもってつながるこのエピソードを思い出したと。

親鸞は歎異抄において、慈悲には2種類あると説く。
聖道の慈悲と浄土の慈悲である。
このうち浄土の慈悲こそ、利他の心を表している。
共感したとか、他人によく思われたいとか、見返りが欲しいというのは、浄土の慈悲ではないのだ。
なるほど、内心の葛藤の末、とっさに50両を渡した長兵衛にこそ、仏に背中を押された浄土の慈悲があったと考えられる。

「こんな夜更けにバナナかよ」は、未見なのだが、障害者福祉を問うた映画であり、原作はノンフィクション。
大泉洋演じる筋ジストロフィー患者の主人公は、ボランティアに支えてもらわなければ生活ができない。にもかかわらず、わがまま言いたい放題で、ボランティアをこき使う。
ボランティアたちはうんざりしつつも、しかしそこに利他がある。
自分自身のことができないかわいそうな障害者に、共感しつつ上から施しをしてやる種類の障害者福祉ではないのである。
文七になんの義理もない長兵衛は、このボランティアに近い。
傲慢かつ不遜の極みと世間から見られていた談志の落語に、真の利他を見るという視点、非常に面白いじゃないか。

落語を文学として考えることまでは、私もしばしばしている。
だが、哲学・倫理学の素材として捉えたことは今までなかった。
いずれにしても、落語は懐が深い。あらゆる学問の成果もちゃんと、落語の世界のどこかに響くということだ。
 
 

作成者: でっち定吉

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