亀戸梅屋敷寄席21(下・三遊亭好楽「紙屑屋」後半)

先代正蔵と先代圓楽、ふたりの師匠に仕えた好楽師は非常に持ちネタが多い。だから過去8席毎回違う噺を聴いていたが、今回初のカブリ。
「紙屑屋」は3年前にここ亀戸で聴いた。家内と息子を連れてきていたこともあり、印象は強く残っている。
だが、このカブリはまるで気にならない。以前聴いたものと、中身が相当違うのだもの。
大ベテランの師匠の噺が、たかだか3年で中身がそっくり変わるってどういうこと? それだけ常に噺を動かしているのだろう。
3年前に聴いたものと、それより前にオンエアされた日本の話芸の「紙屑屋」はおおむね同一だったのだが。
近年の好楽師が、新たな領域に移っていることがうかがえる。
テレビでの成功だけでは物足りないものか、明らかになにかギアが変わっている。
弟子と孫弟子を二桁抱える一門のボスであり、円楽党引いては落語界全体を考えねばならないポジションにもある、その責任がそうさせるものか。
74歳にしてウソみたいだが、事実だ。

恐らく、明日すぐに紙屑屋をやったとしても、違う高座なのでは。
あらゆるパターンを出し尽くしていて、高座で自由自在に組み合わせられるのだ、きっと。

若旦那ものといえば、つい最近、三遊亭小遊三師の「船徳」を聴いていたく感銘を受けた。
同じ若旦那でも、外見のカッコよさに惹かれて適当な船頭になるのが船徳。ニートなのだが実は高等遊民なのが紙屑屋。
それぞれの師匠にピタッとハマる演目。この違いは楽しい。

この日の紙屑屋では、なにもしない若旦那の、怠惰な生活を強調する。そらおかみさんも機嫌よくないなという。
そして、親方が若旦那に奉公の話をする際、おかみさんをあらかじめ隣家に送り出してしまう。
おかみさんがその場にいない理由付けなんて、さして必要でもないだろう。だがそうしてみたいらしい。
噺が完全に肚に収まっている好楽師には、なんでも自由自在なんだろう。

湯屋番と共通している、ホウキで天井をつついて若旦那を呼ぶシーンは入っている。これは、円楽党でしか聴いたことがない。
そしてなにもしないくせに、実に憎めない若旦那。
「人のよさ」という要素は、落語にとって実に大事である。日曜日も、弟子の好吉さんから師匠譲り、人のよさのエッセンスをいただいた。

超ベテランなのに、というか、だからこそなのだろうが、妙にたどたどしい口調の好楽師。
ここで脱落してしまう人も中にはいるだろう。志ん朝と違うとか言って。
あるいは「本当にうろ覚えだ」とか言って。
そんな、もののわからない人はこの日の亀戸には来てないけども。
だが、噺をその場で作っているとおぼしき好楽師。たどたどしくても無理はない。それも味だ。
その先に、溢れる宝がざっくざく。

ひと節うなりながら、紙屑屋に出向く若旦那。歌い終わってガラッと戸を開ける。
実にいい声なのだが、決して中手をもらわないよう、実に巧みに先のセリフにつなげる好楽師。
中手の嫌いな師匠は他にもいる。理由ははっきりしていて、本筋と関係ないところで拍手をもらってしまうと噺が壊れかねないからだ。
だが、中手を根本的に発生させないという芸は、好楽師の他に知らない。

「白紙は白紙、カラスはカラス、線香紙は線香紙、陳皮は陳皮、毛は毛」。楽しいフレーズ落語。
このフレーズは、若旦那のお遊びを締めて、次のシーンに移るジングルになっている。
ジングルに挟まれた各エピソードで、若旦那の芸達者ぶりがうかがえる。
野菜尽くしのシャレ手紙、川柳から芝居、なんでも来い。できないものはない。
実社会ではパッとしない若旦那も、落語の世界ではヒーローなのだ。
このジングルの切れ目に、毎回なにかしらお宝を発見して喜ぶ若旦那。全部ハズレ。

ここ数席の師の高座を聴き、そのいずれにも、表面に現れないなにかを感じている。噺が深い。
紙屑屋についてどうかというと、そこまでの深みまではないけども。
でも「芸」とはいったいなにか。それが自然浮かび上がってくるような気はする。
フラフラしている若旦那だが、基礎教養は実に豊富な人だ。親方夫人にはわからない。

軽めの噺なのだが、この日もやっぱり大満足。
好楽師が気軽に聴ける亀戸はすばらしい。

亀戸梅屋敷寄席、ハネた後、いつもは錦糸町まで歩くのだが、今回は余韻に浸りつつ亀戸を通り抜け、都営新宿線の西大島駅まで歩いてみた。
首都高の高架下が、国貞の三代目歌川豊国にちなんだ庭園になっているとは知らなかった。
なかなか面白いところだ。

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作成者: でっち定吉

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