三遊亭遊馬「大工調べ」

浅草お茶の間寄席に、三遊亭遊馬師が登場。
トリでの「大工調べ」の熱演。これを取り上げてみます。
2月下席らしい。昼は宮治師の披露目で、後ろ幕がそのまま出ている。

遊馬師は、本格派のベースに、面白さが絶妙なフレーバーとなっている人。面白落語でも、カチっとした落語でもない、空気感が楽しく、気持ちのいい落語。
なにごともバランスが大事なのだ。
もっと聴きたいものだと思っている。とりあえず、江戸東京博物館のツキイチ落語にまた行こうと思う。

寄席の評価の高い遊馬師、トリをちゃんと取っているが、だいたい夜席。トリは聴いたことがない。
トリの模様がテレビから流れてくるのをありがたく聴かせていただく。
そして、大工調べは初めて。

芸協のトリは時間が短い。この放映も23分しかない。
啖呵までの大工調べとはいえ、この時間では結構大変。
「なんか載せたんじゃねえか」の棚のマクラから、すぐ本編へ。

遊馬師にとって与太郎は得意科目。
「実は意外と賢い与太郎」という造形もしばしばみられる中で、遊馬師の与太郎は、いかにもな与太郎。
愛嬌があって憎めないのには、師の笑顔も大いに貢献している。

冒頭から、ずいぶん省略している。
「時間通りに下りられない」と自虐をマクラで吐く遊馬師だが、寄席のトリではちゃんと編集するのだなと。
なにしろ、「道具箱がない」から「大家が持っていった」までの早いこと。与太郎がすぐにネタを割っている。
こんなところ削れるのだな。

しばしば、口が回らない遊馬師。
この後の啖呵、大丈夫かしらなんてちょっと心配したりして。
でも、啖呵しくじらない限り、言いよどむぐらいどうってことはない。もちろん演者によるのだが。

ところで大胆な省略にもかかわらず、大工調べの噺の雰囲気はまったく損なわれていない。
最近つくづく、長けりゃいいってもんじゃないと思うようになった。噺の肝を大事にしていれば、それ以外は思いのほか省略できる。
といって長い噺を一切認めないなんてことではないが、寄席サイズこそ標準であるべきではないかなんて思ったり。

遊馬師が最も大事にするものはなんだろう。
「ほんのちょっとした行き違いで喧嘩がとめどなく拡大する」。大工調べの面白さとは、つまりここにあるのではないか。
落語の場合、コミュニケーションギャップが通常、笑いを拡大する。
典型的なのが蒟蒻問答だが、前座噺からしておおむねそう。「たらちね」とか。
なら、コミュニケーションの断絶でもって、登場人物が怒る噺だってあってもいい。そういうことではないだろうか。

大工調べは、大ネタの割にはしばしば掛かる。よく聴くが毎回新鮮という、得難い噺。
毎回新鮮なのは、演者ひとりひとりが持つテーマや人物造形が異なるからだ。
「大家は別にそれほど嫌な奴じゃない」という演出を、よく見かけるようになった。
もちろん、棟梁が怒る程度には嫌な奴である。そこまで否定することはできない。
だが、棟梁にとって嫌な奴だからといって、客のわれわれにとってそうだともいえない。客にとって、そんなに嫌な奴にしない演出が流行っているようだ。
ただそうすると今度は、どうして棟梁が烈火の如く怒るのかを、考え抜く必要がある。
落語とは、ちょっと変えようとすると全部いじらないとならず難しい。難しいから面白い。

大工調べにどう立ち向かうか。
遊馬師は、棟梁の側の正義と、大家の側の正義とを、完全に切り分ける。
棟梁にとっては、もともと道具箱は「言いづくでも取れる」もの。なのにたかだか800文で手放さない大家は因業。
大家にとっては、別に難しいことを言うのではない。あと800文持ってくれば道具箱は手放すよというだけ。
後日お白洲に引きずり出された際の質株非所有の瑕疵はさておき、大家の正義もそんなに難しいものじゃない。
遊馬師の描き方だと、与太郎の「あたぼう」に頭に来て無茶を言っているわけではない。むしろ、金を持ってきさえすれば無礼は大目に見てやるというところ。
棟梁が、大家の親切に勝手に期待しているあたりでは大家はムカついているのだが、それもまた、金がちゃんと届けば許すつもりはあるのだ。
正義と正義が対立する構造。
最近神田連雀亭で聴いた、立川笑二さんのものも似た構造だった。
だが似ていても、やはり新鮮に感じる遊馬師の一席。なぜか。

遊馬師の大工調べ、3人の登場人物が、われわれ客から見事に均等の位置にあるなと。
狂言回しの与太郎も含めてだ。
誰かに、過剰に肩入れすることを避けるのだ。
客が肩入れするのは自由だが、演者にはそのような、押し付けフィルターはない。
演技の手法も、ドラマのようなリアリティを追求するのではない。むしろ、舞台の芝居。
落語の人物としての「らしい」姿がそこにある。だから、時として間抜けな声を大家が発するのも、落語のリアルに貢献する。

啖呵よりも、棟梁の長回しの釈明に着目した。
スラスラスラとセリフが途切れず続く気持ちいいセリフは、しかしよく聴くと結構イラっとする。大家でなくても。
言葉遣いがぞんざいというより、なに自慢してるんだよという。
こんな構造で、どこまでいっても3者がフラット。

啖呵はしっかり見事だが、言葉だけ取り上げると、語尾が霞んでいる部分も多い。
なのに、マイナス評価が一切湧かないのは不思議だ。トータルでの気持ちよさがあるからだ。

聴けば聴くほど楽しい一席です。

作成者: でっち定吉

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