可能な限り毎日更新、でっち定吉です。
寄席に行く予定はあるけど、行くまでブログのネタをつながないといけない。
ABCラジオの「なみはや亭」を聴く。
最近、なみはや亭で出た演目を調べに、当ブログにお越しくださる人が増えて嬉しい。南光師の「抜け雀」とか。
さて今回掛かっていたのは、今度二代目八十八(やそはち)を襲名する、桂宗助師の「代書」。
師匠米朝のそのまた師匠、四代目米團治の創作した演目である。米團治は実際に代書屋を営んでいたそうで。
劇中の代書屋の名は、米團治の本名である「中濱」。
新作落語もこうやって伝承されていく。
代書(または代書屋)は、権太楼・文治といった人が手掛けていて、東京でもよく知られる噺だ。
ただし東京の場合、無筆のアホとのやり取りがフルバージョンである。権太楼師はこれをトリでも出す。
上方においてもあらかたはそうなのだが、それでも本来のフルバージョンというものが想定されている。これがラジオで掛かっていたので驚愕した。
先日、「唖の釣り」がTVで出ていて驚いたが、それに匹敵する衝撃。
なにしろ代書のフルバージョンには、言葉がたどたどしい戦前の朝鮮人が出てくるのだ。
渡航証明を「トッコンションメン」と言うので、代書屋さんにはわけがわからない。
ひと昔前なら、間違いなく内容が差別的とされ、放送禁止。
落語会においては、米二師などが細々掛けていたそうだ。
師が日経で連載をしていたとき、このくだりに関するこだわりを強く述べていたのを思い出す。それだって、放送に乗せられない前提に対して、思いがあったわけである。
そんなデリケートな演目が、堂々とラジオで流されている。隔世の感がある。
しかもラジオのトーク部分でも、朝鮮人の場面についてことさらに触れない。
実際には、この演目が電波に乗るまでには、様々なやり取りが裏であったと思う。だが実にさりげなく出すという。
そもそも、代書の朝鮮人のくだりに差別を感じてしまう意識自体、過剰反応に思えるわけである。
当の朝鮮人は、故郷・済州島にいる妹を大阪の紡績工場で働かせるために、渡航証明を書いてもらいたくて代書屋に来ている。
冒頭の履歴書代筆のエピソードと異なり、極めて専門的な分野。複雑な書類である渡航証明をなんとか作成してやろうと奮闘する代書屋に、差別意識などかけらもない。
もっとも噺の続きでは、虎に食われて死んだ父の死亡届が出ていないなど戸籍に不備があった。罰金が科せられるだろうという代書屋に対し、朝鮮人はそらかなわんと逃げ帰ってしまうのである。
済州島に虎がいたとは思わないが。
30年近く前、SFアドベンチャーという雑誌で「笑い宇宙の旅芸人」という小説の連載があった。作者は上方落語界にも知己の多いかんべむさし。
笑いを求めてあらゆる世界を旅する主人公3人のうち、ひとりが上方落語家。この噺家が、代書の朝鮮人のくだりについて触れていたのをよく覚えている。
当時からすでに差し障りのあったこのくだりを、どの噺家だったか、あえて掛けたところ、実は客席に韓国人がいた。
当の韓国人が楽屋を訪ねてきて、一瞬「しもた」と思った噺家であるが、その韓国人本人が「こんな面白い噺を初めて聴いた」と感激のメッセージを伝えてくれたとのこと。
登場人物である噺家、「これ小説の中で言うてるだけと違うて、ほんまにあった話でっせ」。
いたく印象に残ったシーンであり、代書の朝鮮人のくだりを、私が最初に知ったきっかけでもある。
だが、連載終了後文庫になってから読んだら、このくだり丸々カットされていてずっこけた。
確かに、たまたまひとりの韓国人が感動してくれただけで、本当に差別があるなら免罪符にはなるわけではない。それで削除されたのかと思う。
昨日も取り上げたバルセロナのサッカー選手の日本人蔑視発言を、ひろゆきが免罪したとして解決するわけではない。その意味では、小説に盛り込むにはやや底の浅い逸話ではあった。
差別について真剣に考えること自体が、新たな差別を巻き込む。そうした負のスパイラルの時代は、間違いなく長く続いてきたのだ。
昨日は、たまたまなのだが百栄師の、偏見を巧みに笑いに変えた落語について語った。
こういうものがOKだとしても、朝鮮人はNG。そんな時代は長かった。
だが時代は明らかに変わった。
政治的に誰かが強くなったとか、弱くなったとかいうことではないと思う。世間がだいぶ成熟してきたのだ。
オリンピック開催の有無で分断された日本人を見て絶望感も味わうのだが、いっぽうで、確実にいい時代の到来も肌で感じる。
最近では、差別意識なく作られたフィクションについて、それをことさらに問題にしないというルールができつつある。
落語というもの、ここをクリアしないと掛けられる噺がなくなってしまいかねないので、本当によかったと思う。
現代でも、ことばのたどたどしい朝鮮人を笑う文化について、不快に思う人がいるのは確かだ。積極的に嘲笑ってやろうとするネトウヨがウヨウヨいる中ではなおさらのこと。
だが、代書屋の中濱先生にそんな意思はない。この落語は、なにを喋っているかわからない人とのコミュニケーションギャップを描いただけである。
この先生は、最初に来た無筆の男に十分手を焼いている。今日はあまりいい日じゃないなと思っている。
それからもうひとり、サゲに関係する書家の先生(中風で字が書けないので頼みにくる)に字をやいのやいの言われて、これも儲けにならない。
そこに、さらにややこしい背景を背負った朝鮮人がやってくる。
ここには落語における、普遍的な笑いの構造が見られる。次々災難が襲い掛かるというのは、「蜘蛛駕籠」によく似ている。
放送を聴き、晴れ晴れした気持ちです。