鈴本演芸場6 その4(中手の作法を考察する)

にゃん子・金魚先生に対してやたらひとりで拍手を入れている女性客を見て、いろいろ考えさせられた。
客の作法も難しいものだ。
芸人の見事なパフォーマンスに中手を入れるのは、別に間違った作法ではない。他の客を巻き込んで盛り上がることもある。
今回のようにスベリウケ狙いの芸に思わず入れてしまった拍手も、絶対にダメだともいえない。別の形でウケる可能性もある。
実際、私だってこの女性客を、一度は追っかけて手を叩いた。引いている他の客の反応を見て、その後はやめたのだが。
私と女性客との差は、他の客を気にしていたか、いないかだけ。
結果的に、場にそぐわない中手の入れ方となった本人、気づくことはないだろう。寄席をコントロールしようなんて「おこがましい」という評価となる。

なにが問題か。この客の自己顕示欲だと思うのだ。
芸人さんをサポートしてやろうとか、そういう気持ちが過剰に見えて、他の客が嫌な感じになることがある。
寄席の流れに身を任せず、異物であり続けていたためにしくじった。
この客は自分が異物であることを理解できず、ヒザの小菊姐さんのときにもやらかしていた。

客の振る舞いには厳しい私でっち定吉であるが、今回のそぐわない拍手を、ことさらに糾弾するつもりでないことは断っておく。
噺家がまだサゲを語っている最中のフライング拍手など、真に怒ったときはボロクソ書くが。
かつて小ゑん師の噺の最中、手を叩き続けだったおばさんのことも糾弾した。そういえば、あのときも「ほっとけない娘」だった。
今回の空気を読めない女性客が、私のこの記事を目にすることを期待はする。だが、寄席のマナーを上から押し付け、猛省を迫りたいわけではない。
いつになく戸惑った私と、一緒に考えましょうと言いたいのです。
ただいずれにしても、「ここで手を叩いている私に気づいてちょうだい」という自己顕示欲が消えない限り、治らない。

次の古今亭駒治師にとっては、この日の客はやりづらかったようである。他の演者もそうだったろうなとつぶやいていた。
私個人は、空気を読まない拍手のお姉さんを除いては、決して悪い客とは思わなかったけども。
拍手についての考察、実はまだ続く。

駒治師は、すっかり定番マクラになった、調布のインターナショナルスクールの学校寄席のマクラから。
マクラを、毎回聴いても楽しい内容に練り上げるのが実に上手い人である。
この技術を見れば古典落語も絶対上手いはずなのだが、こだわって新作しかやらない。でも、新作から古典を感じるのだ。
続いて、これも定番。袂から紙を取り出して、学校寄席の感想文を披露。今日は市川の小学校という設定。
そしてそのまま、「生徒の作文」へ。

生徒の作文は、いにしえの芸協新作らしい。
学校の先生が持っている生徒の作文を読ませてもらうという枠組みだけ活かし、中身は自由に作れる便利な噺。
駒治師の場合、鉄道ネタも入る。「地下鉄駅名織り込み作文」と、「ぼくは常磐線の車掌になりたい」。
どこでこの噺聴いたっけと思う。思い出せない。
後で調べたら、2017年にイオン葛西店の無料落語会で聴いていた。

地下鉄駅名織り込み作文で中手が来ないので、不満な駒治師。こういうときは手を叩くものなのにと、あくまでギャグとしてだが高座でつぶやく。
でもちょっと考え違いだと思います。
中手というものは、「大工調べの啖呵」であるとか、「黄金餅の道中付け」だとか、「がまの油の口上」だとか、演者自身の見事なパフォーマンスに対してされるのが本来の姿と思う。
見事な「ネタ」自体に手を叩くというのは、少なくとも私の感性にはない。
駒治師が不満を高座で語るその前、作文に中手を入れようか一瞬考えたのも事実なのだが、違和感を覚えやめた。先のにゃん金先生の舞台のこともある。
それはむしろ、古典落語に付随するマクラに対して手を叩く行為に近い。「あたしが考えたんじゃないんです」と噺家さんが困っている拍手。
生徒の作文の場合は、駒治師の自作だから、作ったことに敬意を払うのはあってもいいとは思う。でも、それは新作落語家古今亭駒治に対する拍手であり、演者へのものではない。
この日の客が決してなにも考えていないわけでないことは、トリの小ゑん師で証明された。

駒治師は大好きな噺家なので、高座から多少筋違いの苦言をもらっても、嫌になりはしない。この日のデキもよかった。
でも、生徒の作文で中手をもらうのはあきらめて欲しい。今後手を叩く人がいても、それは別にいい客じゃないと思います。

参考まで「落語の中手」。

続きます。

 
 

作成者: でっち定吉

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