ベテラン噺家はどうあるべきか

昨日は人間国宝をぶった斬ってしまった。
アクセスは増えるのだが、この手のインパクト狙いの記事はクセになるので気を付けよう。特に広告収入が上がるようになった今、リミットが利かなくなるおそれがある。
もっとも、内容自体は繰り返し書いているものではある。「老害」自体はキツい言葉ではあるが、小三治が落語界にどれだけ貢献したか、マイナス面までをも考慮したとき、はなはだ疑問。
それはでっち定吉の主観だろって? 主観には違いないが、いずれ歴史が証明すると思いますよ。

さて今日は、若干続く内容。
世間における老害事例とパラレルにとらえたとき、超ベテラン噺家は落語界に対し、また世間に対しどう向き合うべきなのか。どういった態度をとるべきなのか。
なにしろ噺家は生涯現役である。だが、世間に必要とされるとは限らないわけだ。

一番美しいのは、笑点の師匠たち。
笑点は超高齢化が止まらない。だが、総リセットして若い噺家に入れ替えろなんて議論には発展しない。
ジジイたちが超絶面白いのだから、あれでいいのだろう。
自分こそ落語を知り尽くしているぜと自負する落語ファンには評判悪い笑点だが、そういうファンこそが、小三治のような傲慢な噺家を付けあがらせてしまうのである。

常にファンの目線を意識して、楽しいジジイであろうとする笑点メンバーこそ、老害から最も遠い人たち。
それにいつも書いていることだが、笑点メンバーこそ、落語界における代表的育成達者。
木久扇、好楽、小遊三、円楽、昇太という師匠たちの一門が、どれだけ大きくなっていっているか。どれだけ落語界を牽引しているか。
笑点以外では、さん喬、一朝、鯉昇という師匠が目立つぐらいのものである。
メンバーたちは確かに運もよかった。最大の運のよさは、あの番組のおかげで醜い老後に向かわなかったことにある。
彼らは常にテレビ界で、若いタレントたちと闘い続けているのだ。ジジババ視聴者たちだけを相手にしているのではない。

ちなみに歌丸師は、笑点メンバーとしては例外的な育成下手だった。上記の師匠と並べてみたとき、落語界を知らない人でも感じ取れる違いがあるのではないか。

醜くならないベテラン師匠は、私は大好き。
品川区旗の台・昭和大学の学祭の落語会は、残念ながら台風とコロナでずっと開かれていない。
だがその前、2年連続で聴いた柳亭左楽師はたまらないものだった。なので黒門亭にも出向いた。
現在は故郷・広島に帰ってしまったそうなのだが。

池袋の柳家小のぶ師の芝居でお見かけした、日ごろはもう高座に上がっていない柳家小はん師も、じわじわと、たまらないお爺さんだった。
いっぽうで、同じ芝居に顔付けされていた三遊亭歌笑師(高座は聴いていない)は、実にもっていただけない。高座のほうではない。
司馬龍鳳という、修業を終えていないインチキ噺家(自称・インディーズプロ)を一門にして、三遊亭の名を勝手に与えてしまった。
暴挙も甚だしい。

高座では、とんでもない爺さんも観た。
当ブログにも書いたのだが、当代三笑亭可楽師は、高座を投げ出してしまった。
ドキュメンタリーとしては面白いのだが、まあ、本格的老害だとしか申し上げられません。

ベテラン師匠になったら、常に楽しくあらねばならない。さもないとたちどころにマイナスが目立つ。
年寄りになってからなんとかしようとしてもダメなので、若いうちから日々考え抜いていないとどうにもならない。
柳家喬太郎、春風亭一之輔といった今売れている師匠たちには、いざ老人になった際にどういう噺家になっていたいかという戦略が、間違いなくあると思うのだ。
もちろん、それに合わせて今から仕込んでいかないと、理想の老人にはなれない。
小三治なんて人も、その際の反面教師としては役立つだろう。

漫才のほうに目を転じると、どうでしょう。
コンビというものは、年齢を重ねて難しい場合もあるようだ。
おぼんこぼんなんていうのは、醜いな。不仲がネタになっているのだからこれでいいのかもしれないが、でも醜い。
熟年解散したWモアモアも、実に醜い。
落語の寄席では、超ベテラン漫才師はだんだん排除されていっているのが事実。席亭の目はシビアだ。
だが、夫婦漫才は別。
東京太・ゆめ子先生はいまだに面白い。実に楽しそうだしね。
亡くなる直前まで、新山ひでや・やすこもそんな感じだった。
あとは音曲漫才で東京ボーイズ。
みんな芸協。

作成者: でっち定吉

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