昨日取り上げた今戸の狐であるが、思い出すとまだまだいろいろ出てくる。
可楽宅へ恐喝に出向くチンピラだが、ちゃんと可楽の見事な高座は聴いているらしい。
先日聴いたあの、三題噺は見事でしたと声を掛けている。仲入りでお題をもらってトリで出すというね、と実に手短かかつ細かいセリフ回し。
ムダがない。余計な説明に注力しないのだが、語ったほうがいいことはちゃんと語る馬太郎さん。
今戸の狐は、「落語界というもの。噺家というもの」その全体をスケッチする噺でもあるのだ。
この貴重な噺、ぜひ売り物にして欲しいものです。
それにしても、噺を通して後世に残る可楽は偉い。
それに引き換え、今の可楽(九代目)と来た日には・・・まあ、いいや。
ちなみに後で志ん朝の「今戸の狐」を聴いてみたら、マクラで「狐」の説明が出ていた。
狐はサイコロ1個を使う「ちょぼいち」の変形であり、サイコロの数が多い分だけ当たる確率が高く、配当が小さいことを端的に述べている。
やはり、チンチロリンではないと思う。
まあ、噺家が博打に詳しくなくたって、別にいいのですが。先代小さんは小きん時代、客に「壺の振り方だけ上手い」と評されてガックリしたそうで。
仲入り後の馬太郎さん、黒紋付なのは同じだが、ちゃんと着替えている。
「市川團蔵という人がいまして」と淀五郎に入る。
淀五郎については、昨秋からいいのを続けて聴いている。柳亭左龍師と、隅田川馬石師。
金原亭の先輩、馬石師と若手の馬太郎さんを比べたらいけない。でも馬太郎さんも、馬石師と持ち味が相当違い、決して悪くなかった。
馬石師の見事な淀五郎は、完全に芝居であった。芝居として私も楽しんだ。
芝居の模様を完璧な芝居として届け、そこから役者本人に、視点を変えていく構造。
金原亭なので、噺の構成は馬石師とほぼ同じ馬太郎さん。ただ、印象はかなり異なる。
馬太郎さんの他の噺と同様、噺にがっちり浸りきらない。むしろ、積極的に距離を取る。
客は團蔵のしごきに耐える淀五郎について、ある程度の距離を持って眺めている。もちろん、どれだけ近づくか、また逆に離れていくか、それは自由。
私は團蔵にも、淀五郎にも浸りきらず、中立に眺める。演者の馬太郎さん自身を眺める感じ。
「通さん場」の説明から、緊迫に満ちた芝居の状況を、高座に映し出すのは見事。
この先は、わりと淡々と進んでいく。シーン的には、派手な部分もあるわけだが。
「本当に腹を切るつもりでリアルな芝居をしろ」という教えの噺を、リアルな芝居でなく進める馬太郎さん。
それが悪いというのではない。というか、馬太郎さんにとってのリアルな芝居は、適度な距離を保つことなのかなと思ったりする。
ただ、距離感を遠ざけていくことはまずできないと思う。真打になってから、落語の中の芝居が下手なので距離を置きたいと思った噺家がいても、手遅れ。
逆に、馬太郎さんが現在の距離感を、どんどん詰めていくことはできるのだ。
馬石師のような、見事な芝居になっているかもしれない。
それよりも、距離を保ったままじわじわと客を引き付けるようになっていそうな気がするが。
馬太郎さんの演技論は、中村仲蔵の口を借りて語られる。
この型を、誰かに教わったのかと訊く仲蔵。教わってない? 確かに型ナシだと。
派手な演技を好まず、朴訥に進めることを最上とする金原亭でいてよかったなと、そんな本人のつぶやきが聞こえるような。
ひとつだけ、気になったことがある。
塩谷判官の淀五郎を演じる際に、下手の花道にいる、由良之助の團蔵を眺めているのはいい。
だが、花道から淀五郎を見る團蔵の顔の方向が、上手(演者から見て左手)になってしまっている。
花道から、あさっての方向を向いてることになっているが?
後でYou Tubeの圓生を聴いてみたが、やはり團蔵を演じるときは下手(演者から見て右手)を向いていた。
まあ、この作法が落語的に絶対に間違いなのだとは、素人の私には断言できないけども。
ただ、落語としてもだ。花道にいる團蔵の気分として、舞台の上の淀五郎を酷評する部分である以上、左手を向くのは(気持ちとして)不自然な気がするのだが。
本物の芝居観たいなあ。歌舞伎座の幕見が復活するといいのだが。
ともかく、3席1時間半、満足しました。
やはり馬太郎さんはいい。
今後も楽しみな人であり、一門である。