亀戸梅屋敷寄席9 その3(三遊亭萬橘「大工調べ」下)

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萬橘師の超特急スピード啖呵。
まだ啖呵の最中なのに手を叩いた客がいた。気持ちはわかるが、最後まで聴いてからにしようや。
萬橘師なおも啖呵を続け、言い切ると客のほとんどが嘆息とともに大きな拍手。

啖呵が意味を解体され、音だけで再構成された効果は他にもしっかりある。
これによって大家の因業ぶりが、まったく客に伝わらない。
実のところ萬橘師の描く大家は、そもそも因業じゃないのである。棟梁の啖呵スイッチを入れたのだって、企んでのことではない。
見たことのない与太郎の大工スキルについて、店賃の貯めっぷりを見る限りどうせダメに決まっていると決めつけた、ただそれだけなのだ。
こんな大家を悪く描く必要はない。

だから実のところ、生まれ変わったこの大工調べに悪人は一切出てこない。
それはとりもなおさず、我々落語ファンが愛してやまない「落語の世界観」に忠実な解釈なのである。

骨格を完全に作り直した大工調べは、結末もすごい。
なんと大家も反省、譲歩して、大団円となるのだ。
ここでびっくりはしたが、だが、この新たな結末は取ってつけたものではない。
もともと因業でない大家の性格がつながりをスムーズにさせただけにとどまらず、新たに作ったサゲのためにもまた、入念な伏線が引いてある。

そもそも既存の大工調べを掛けられない噺家がいるのはなぜか。
対立がエスカレートしたあげく、最後は一方が完全な勝利を収めるという展開が、もうひとつ落語っぽくないからではないのか。
確かにお白洲ものというのは、講釈の要素から抜け切れない。
萬橘師の大工調べ、後から振り返ると、こんな話。

  • 大家と店子が店賃を巡って対立し、そこに油を注いでしまうが、怒りをぶつけあって和解する

どこにもお白洲につながる余地のない。つなげようとしてもつながらない、まったく新たな「大工調べ・全」。

噺家というのは、複数の役者と、演出家、舞台監督をひとりで兼ねる偉大な仕事。
さらにいうなら、演出家としての萬橘師は、既存のロングラン芝居に、まったく新しい解釈を与えてしまった。
今後この型が、「萬橘大工」としてスタンダードになったっておかしくはない。
いや、実際にそうはならないこともわかっている。実際私ほど、既存の大工調べ(しかもお白洲まで通し)を擁護している人間もいないと思う。
その私が、新たな型を目の当たりにして、感動にうち震えているのです。
落語には本当に無限の可能性がある。
そして、ときとしてこんな傑作が掛かる亀戸梅屋敷寄席、恐るべし。

この日の私、期待の顔付けであった神田連雀亭ワンコイン寄席に先に行った。
決して悪くもなかったのだけど、イマイチ消化不良な出来栄え。
ひどい寄席だったらむしろブログのネタになるが、どうにも中途半端な、モヤモヤする内容だった。
そしてハシゴして亀戸に移ってからも、代演でのひどい一席があり、私かなり落ち込んでいたのである。
ちょっとイヤな気持ちを最後に軽く吹き飛ばしてくれた萬橘師。
やはり落語は素晴らしい。

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作成者: でっち定吉

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