番組が若いころの談志を振り返る中に、談志が誌上インタビューで「自分の落語はエリートのもの」だと語るシーンがある。
ごく浅い感性しか持ってないヤツに、自分の落語がわかるはずがない。そんな傲慢さが思わず現れたものか。
だがそんなセリフを生前に残す談志、実のところ「客にわからなくたっていいのだ」という態度で落語を語ったことは、恐らくなかったのでは。
だからこそ、笑うシーンでないのに笑われた結果、まわりが引くぐらい落ち込むわけだ。
実はわかって欲しいし、わからせたい。決して「わからせられない自分がダメなんだ」に向かうことはないけれど。
「大衆芸能」というもの、大衆に受け入れられないと本質的に成り立たない。その自覚はむしろ談志には、強いぐらいに強かったのだと思う。
談志の好きな歌や映画なども、わからないことで人気を博したものなどなかった。自分自身では、高いハードルを設定したつもりなどなかったのだ。
番組では取り上げられていないが師匠・小さんからは、「あいつは考えすぎなんだ。女子供にまでわからせようって了見がよくねえ」と言われたとか。
現代は常識の変遷とともに協力や礼儀がなくなり、そして古典落語からも共感が失われ、落語のテーマがダメになるのだ。そう会のパンフレットに書き記す談志。
その結果噺家は、「落語という題材を使った笑わせ屋」になってしまうのだと言う。
この嘆き、わからないではない。
だが、談志の嘆きのまさに正面にあり、現代隆盛の面白古典落語自体を悪く言う気は、私にはまったくないけども。「本寸法」と呼ばれる落語も面白古典も、結局個性の違いに過ぎないだろう。
そもそも、談志落語がスタンダードになった時代など一度もなかった。ファンの間ですら。
ファンは異端の落語を聴いて楽しんでいたのだ。演者の側と、根底から食い違っているではないか。
談志の落語は結局、最終的には世間を否定しないと成り立たないのではなかろうか。
客に合わせようと考える業界において、やはりこれ自体、究極の異端。
またお寺で落語会があり、楽屋でネタをさらう談志。
紙に手書きで演目を書き記しているが、達筆すぎて読めない。
頑張って判読してみる。
- 戸棚
- 風呂敷
- 紺屋高尾
- 短命
- 紙入れ
- 天上にGO(※読めない)
「戸棚」というのは風呂敷のこと?
書き記した内容が間違いないのは、紺屋高尾と短命だけ。
談志が口を開き、テロップも出たので紙入れはなんとかわかった。「仏入山」と書いてあるのだと思った。そんな噺、ないけど。
その隣にある紙は、マクラのメモらしい。
こう書いてある。
《ジョーク集》
- コーラスグループ
- 犬と肉の絵
- 男と女が強い
(以下ペンの下であり、見切れてもいて不明)
マクラも、一応準備はしているのだなと変に感心。準備した通り喋るとは思わないけれど。
「短命」「紙入れ」を、「持ちネタ、つまらない話だ」と取材クルーに語る談志。
声の震える師匠でおなじみ、彦六伝だけやっていればいい木久蔵(木久扇)を引き合いに出して。
実のところは、同じ噺を繰り返すことが許される噺家に対する、うらやましさがにじみ出ているのだろうと思う。先代圓歌などもそう。
結局、本番ではお化け長屋を語り出すが、先が出てこない。噺の展開が見えなくなってしまったのだ。
高座の上で悩んでいるさまを客にすべて見せてしまい、初めに戻って紙入れをやり出す。
その紙入れもまた、次が出てこないところがあった。
客は喜んでいる。噺の先が続かない自分自身を俯瞰して語ることはできているからだ。
ドキュメンタリーメタ落語となっている。
会が終わったばかりの談志、楽屋で気になりお化け長屋をさらう。
若い頃に全部噺を覚えてしまった才人だからこそ、こんなところで悩んでしまうのだ。
だが、元々の噺の覚え方がよくなかったんじゃないかなんて思う。素人落語もやらない、真のド素人の見解だということは断っておく。
もともとなんでも頭に入ってしまうので、なんでも覚えられた。だが談志、フレーズのつながり、ストーリーの塊として、噺が脳に刻み込まれてしまったのでは。
本当は、登場人物の心の変遷自体をしっかり焼き付けていかないといけなかったのではないか。
登場人物の了見が叩き込まれていれば、セリフなんかその場で出てくるはずなのだ。先代馬生などこうだった。
アドリブにはとことん強い談志だが、その場で噺を作ることはできなかったのである。
もちろん、全部頭に入っているからこそ、噺を俯瞰し、メタ構造も駆使して語ることはできた。だが、噺を練り上げるという方向性とは違う道。