拝鈍亭の柳家さん喬(中・笠碁)

笠碁/寝床

さん喬師の笠碁、音源を持っていたように思うが、そうだとして聴いたのはずいぶん前。新鮮な気持ちで聴く。
マクラからのつながりは師匠、小さんの噺だということだろう。富士銀行で一緒に遊んでいた小里ん師も笠碁を掛ける。
拝鈍亭のお客、落語をよく知っている。「小里ん」の名もすぐ響く。
笠碁の劇中、遊びに行けない隠居が「退屈で、退屈で、ふわー」にすぐ反応する。
あくび指南を入れてくるのは、寄席ではできないさん喬師の遊び。「落語ってのはよくできてるな」と隠居のセリフで被せる。
といって客のほう、俺は落語なんて知り尽くしてるぜといったイキった様子はかけらもなくて、自然体。
客がいいと落語もより楽しくなる。

さん喬師の笠碁は、とにかく緩くていいなと。
碁仇の人間関係、決定的な破綻を迎え、劇的な修復を遂げたというわけではない。おぼんこぼんストーリーとは違うのだ。
噺のどこを切り取っても、いずれなんとかなるだろうという楽観的な見通しで溢れている。実際、なんとかなる。
小里ん師の笠碁、それからさん遊(小燕枝)師のもそうだった。柳家の師匠は友情の回復を劇的にはしない。
一目待てばよかったという後悔の仕方も緩い。あのとき待っていれば、こんなに退屈しなくていいのにというもの。
大人げなかったという反省は、喧嘩そのものよりむしろ「相手に失礼なことをした」という点に向けられる。二人ともずっと、親しき中にも礼儀ありでやってきたのだ。

さん喬師を悪く言うときは「クサイ」と評することになっている(どこで?)。
しかし、笠碁は少しもくさくない。怒りまくったりする場面などないし。

婆さんがよくしゃべる点が珍しい。
といっても、噺の背景にすぎない婆さんが急にしゃしゃり出てくるのも変だ。ちゃんとしたキャラ付けを施したうえでそうするのである。
「猫ばっかり抱いてやがる。猫婆あ」というのはこの噺に限らずよく見られるセリフだが、この婆さん、本当に終始猫を撫でている。
そして、亭主に直接ものを言わず、全部猫に語り掛ける。
別に夫婦仲が悪いわけではない。出かける先がなく退屈している隠居に、婆さんも飽き飽きしていることが端的に描かれるのだ。

ちなみに、猫に語り掛けることで亭主に意思を伝えるというのは、昇太師のマクラにあったなと。
小遊三師が、「猫がいると夫婦間の会話が弾むんだよ」と昇太師に語り、独身貴族であった昇太師がうんざりするという。

細かい部分まで隙なくできあがった一品。
小学生の坊やも声を上げて喜んでいた。うちの子も、小学生の頃連れてった寄席で、文蔵師の笠碁聴いて喜んでいたなと。
すべての人の琴線に触れる噺なのだ。

仲入り休憩を挟んで二席目のマクラは、バクチについて。
師匠・小さんはバクチは嫌いだったと。楽屋で前座相手にポーカーをしていたアダチ龍光先生を叱っていた。
マジックの達人とトランプするなんて、前座ももの知らずだとさん喬師。
さん喬師は語らないが、先代小さん、若い頃には三代目三木助から手ほどきを受けたらしいのだが。
さん喬師が若い頃ハマったパチンコの話。
あるとき、兄弟子小三治の会を手伝ったら、大枚5千円をもらった。その金で、小三治と一緒に新宿でパチンコしたら大当たり。
調子に乗ってわざわざ鶯谷のパチンコ屋に出かけたら、その際財布ごとスられた。
このエピソードが文七元結につながるらしい。

文七元結か。いよいよ暮れも押し迫ったこの日の演目として、意外ではない。
だが勝手に感慨深い私。ついひと月前に、鈴本で喬太郎師の文七を聴いたからだ。
今度は師匠から。

文七元結は柳家の噺ではない。圓生系統か、志ん生系統から教わったものと思われる。
そして、どの一門の噺なのかきっちり筋を通すさん喬師、みずから弟子に教えることはあり得ない。
喬太郎師にも、稽古を付けてもらうなら古今亭に行けと命じたに違いない。
なのに、さん喬・喬太郎という師弟の文七元結、驚くほど似ていた。直接稽古を付けてもらったのならそれもわかるのだが。
つまり喬太郎師、古今亭から教わったのだとして、さん喬師の文七をやりたい、そういうことなのだろう。
喬太郎師は、師匠の噺が好きで仕方ないようだ。

続きます。

(2022/2/13追記)

喬太郎師の「落語こてんコテン」を久々に読んだら、師匠に習ったって書いてました。
似てて当然でした。

 

寝床

作成者: でっち定吉

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