拝鈍亭の柳家さん喬(下・文七元結)

二席目の冒頭では、笠碁によく笑っていた小学生の坊やに話しかけるさん喬師。「噺家になっちゃダメだよ」。
そういえば、うちの子も師匠にそう言われたっけ。子供を連れていったのに、ちゃんと寄席のルールを説明した上で、あえて幾代餅に入ったのだ。
この日も、廓噺ではないが吉原が出てくる文七元結。その断りは特にしない。

さん喬、喬太郎師弟の文七元結を、記憶の鮮やかなうちに続けて聴ける贅沢。
だからこうやって落語会にも行かなきゃと思う。
私は落語を聴くのに、12月が一年で最も好きなのだが、でも寄席が多い。

師弟で異なるのは次の部分。

  • 始まってすぐ、なぜ細川様の中間部屋で博打が開催されるのか、いかにしてカモにされるかの説明が入るのが師匠
  • 佐野槌のおかみが長七に対し、「亭主が生きてたら腕の一本や二本折られてるよ」と言うのが師匠。「ぶん殴ってるよ」というのが弟子。
  • おかみが長兵衛に、娘に直接礼を言いなと命じるのが弟子。師匠は言わない。
  • 師匠の場合、お店の者はみな吉原に不案内で、手代の亀蔵に尋ねる。弟子のほうは、主人も番頭もすぐわかる。
  • 師匠の長兵衛のほうが、50両持ってこられて受け取るのが早い

あとはおおむね一緒。汚い女物を着た長兵衛が、佐野槌で乞食扱いされることも。
それでもこれだけ違いがあれば、ほぼ違う演出だろうとは言わないで欲しい。
噺の核心をなす、なぜ長兵衛は見ず知らずの文七に50両くれてやるかもまったく同一なのであるから。
喬太郎師の師匠への敬愛がよくわかる。
他に誰も通らない吾妻橋の上で、50両をスラれた若者に出会ったのがこの身の不運。売られていく娘を案じながらカネを叩きつける長兵衛だ。
身を投げて50両出てくるのなら、まだ理解するつもりがある長兵衛。
師匠も弟子も、目の前で犬死にが出てしまうことに耐えられないのである。

当たり前のことだが、続けて同じ演出の同じ噺を聴き、退屈することはまったくない。
夜の吾妻橋の緊迫感はたまらない。
小学生の坊やにも、大事な大金を、自殺しようとする若者にくれてやる長兵衛の心境はわかるだろう、きっと。

上記以外では、おかみにキツく叱られた長兵衛が、言葉には出さないもののその場で完全に了見を入れ替えたことがさん喬師からはよく伝わってきた。なんで客に伝わるのかというと、さん喬師の演ずる長兵衛が心から後悔し、反省しているからにほかならない。
このようにさん喬師は、言葉によらない情報発信が非常に多い人である。
完全に了見を入れ替え、もう博打をやることなど考えられない。だから、娘に礼を言え(謝罪しろ)という指示はもう無用なのだ。
さん喬師は、隠れた女房から袖を引かれ、わりと早めに50両を返してもらう。ここが最大の違いだろうか。
カネが出てきた以上、突き返すほうが無理な相談。それは最初からわかっている。

冒頭で手短に、武家屋敷の中間部屋で催される博打について、脱線して語るさん喬師。
いささか味消しに映らなくもない。
だがさん喬師は、この腕のいい左官がなぜばくちにハマったかについて、思うところがあるのだろう。
ごく普通には、博打に勝手にハマったという描き方をするところ。
さん喬師だと、中間たちにうまいことカモにされた被害者だという描き方だ。
中間たちは衣食住は保証されているが給金は小遣い程度しかない。だからもうけ口を考えるのである。
そして、カモが来たら最初は勝たせてやる。味を占めた被害者を、今度はとことん追い込む。

お久が駕籠から出てくるラストシーンは画が浮かびますね。

ちなみにこの日の客はいいと書いたが、人情噺でもって、笑うシーンを無理やり見つけて笑うような無粋な客がいないのもいい。
大きな満足に満ちて拝鈍亭を後にしました。
前座がたっぷりやって、さらに長めのマクラに長めのネタ。とどめは大ネタ。
予定ではこの席、18時30分までなのだが、50分オーバーの熱演。実に爽快。

来年も拝鈍亭はたびたび来ると思う。さん喬師の会は暮れの定番にしようか。
そしてさん喬師は落語会のほうがいいということ、寄席好きの私は今頃になって発見しました。

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作成者: でっち定吉

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